経歴に注目をして読んでいる なるほどなるほど甲斐の若獅子

・誰の声も聞こえないからあなたの声も忘れたふりをして二年半

 

・貝殻に宿る真珠があるように夜の入り江にかかる月影

祥  * 『短歌について』 * 01:49 * comments(0) * trackbacks(0)

鳥居という人の文章を読むと、短歌というものに、まだそんな力があったのかと

 不思議な感じを受ける。
「短歌」を信じ、短歌の力を信じ、表現の力を信じ、他者をいざない、
「絶望を分かちあう」ことで、絶望から救われるという。
分かちあえる人なんて、ほんとにいるのだろうか。
絶望が、それで絶望でない何かになるというのではなく、
絶望は絶望のままで、稀釈されるわけでもなく、
共有される絶望なんだろうか。
虚無というわけではなく、
まだ親愛の感情の入り込める余地のある、
他の人も、同じような深い絶望を感じていると信じられる、
他者への信頼が、まだ残っている、
文学への憧憬も共感も残っている。
「短歌」によって、救われる心があるという。
分かちあうことの出来ない絶望については、
鳥居論を執筆中の岩川ありささんや、
小児科医の熊谷晋一郎さんはどう考えているだろう。

「彼らにとってオウム真理教は唯一自分を認めてもらえ、
ありのままでいてもいい場所」となった。でも彼らが短歌と出会っていたら、
その創作の世界に『居場所』を見つけられたかもしれない」
「孤独な人、生きづらさを感じている人にこそ、短歌を勧めたい」
と、鳥居さんは言う。
短歌によって、孤独から救われるということは無いと思いながら、
他者の共感を信じている。それが鳥居さんの短歌のようだ。

短歌に限らず、文学は、すべてそうだと言えば、そうだけれど、
一方で、?という思いも残る。
短歌を武器として使うことには、私にはどうしても違和感がある。
他者への勧めにはなおさら。
その種の共感に対しても、何かが違う気がする。
血で書く、という行為も、鳥居さんには叫びであり、必然であったかもしれないが、
そこで乖離してしまうものを感じた。



連載している東京新聞や、「鳥居論」の人も、
<差し伸べる手>の部分に注目しているようだ。
他者に対して、、「手を繋ぐくらいならできると思います」というところ。
閉じこもるのではなく開く、力にはなれないまでも声を聞き、手をつなぐ。
居場所のない人の居場所とさえなると、短歌を信じ、同じく生き辛い人に、
「生きつらいなら短歌を書こう」と、手を差し伸べようとする姿勢に、
希望に似たものを感じているのだろう。

生きづらいこの世を、短歌を書き、読み、つながることで、
共に生き抜こうとする鳥居さんの姿に。

それっていうのは、結局、ひたすら孤独に落ち込んで自殺に至った母親の対極の在り方だよね。
母親の生と死を見つめながら、彼女が学びとった生き方なんだろうな。

現実以外に、別の宇宙があるように、鳥居さんにとって、
短歌はまだ、夢の世界なのだろうか。
鳥居さんの生き方は、芸術とは何か、という問題も投げかけている。
よく問われる「飢えた子どもにとって、文学は何の役に立つのか。」という問題とも関連しているが、
その直線上にはない答えこそほしい。
祥  * 『短歌について』 * 01:29 * comments(0) * trackbacks(0)

東京新聞 鳥居 セーラー服の歌人 4  


・思い出の家壊される夏の日は時間が止まり何も聞こえぬ

・慰めに「勉強など」と人は言ふ その勉強がしたかつたのです



   ※短歌引用 東京新聞 鳥居 セーラー服の歌人 4  4月9日夕刊より




ぎりぎりで哀切な母娘の関係。
今は、わが子わが親でも遠慮がちな、淡白な関係が多いけれども、
鳥居さんのお母さんと鳥居さんの関係は、烈しい愛と傷みを共有する。
ある意味、聖母子のように、永遠に切り離されることがない、
生死を分かった後も、深く関わっている。

自死した母親が灰色になってゆくのを為すすべもなく
みつめ続けたその日が消えることのない記憶となっている。
自分だけを愛し、自分だけを頼り必要とした、
精神を病む母親の、孤独ゆえに屈折した深すぎる愛。
第三者のいない、二人きりの、抜き差しのならない関係。

愛おしく思う心と、その羽交い絞めされるような愛から逃げたく思う心。
覆い被さって来る重圧や心配が、母親の死で突然消えて、
永遠に追われることのない解放感と、同時に感じる雪降るような淋しさ。
苦しみの多い生を終え、魂となった母と、
生の側に、置き去りにされた、セーラー服の歌人。

祥  * 『短歌について』 * 22:14 * comments(0) * trackbacks(0)

世田谷は四月に雪のふるところ いや五月にも降るらんよ、降れ /坪野哲久

今日は、まさしくこんな日でしたね。

祥  * 『短歌について』 * 16:54 * comments(0) * trackbacks(0)

鳥居  セーラー服の歌人 / 文 岩岡千景(東京新聞)

昨日から連載が始まった。

第一回と二回を読んだが、
これで終わるのではなく、
連載とあるので、続きがあるのが嬉しい。
久しぶりに興味を持って、
読める文章に出会った。



・花柄の藤籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした母 

・あおぞらが、妙に乾いて、紫陽花が、あざやか なんで死んだの 



 ※短歌引用 東京新聞「鳥居 セーラー服の歌人」(第二回2015年4月7日)より
祥  * 『短歌について』 * 22:32 * comments(0) * trackbacks(0)

虚構がどうとかって言っている人は現実だけで生きたらいい

そもそも、「短歌研究」の選評を読むと、
何年も何年も、というより、いつでも、
作者の属性ばかりを問題にしている。
性別、年齢、職業あてクイズのように。

実存的観点からの批評ではなくて、
想像した作者のプロフィールから読み込もうとばかりしている。
およそ文学の鑑賞でも評価でもない。

昔、私たちが子供だった時、
初めて物語に接したとき、
時間も忘れて夢中になって読んだ本の作家名や
その人の経歴を知ってから読んだだろうか。
知らなくても、その内容に飛びこんで行ったものだ。

時代も国名も、作者がどんな人であるかも知らず、
それでも十分だった。

もちろん、より深く知りたくなって、
もっと沢山その人の書いた小説を読みたくなって、
作家について調べたり、
その他の作品を読んだり、他者による批評や、研究にも興味を抱くようになることもあるが、それが全てではない。

短歌は一般の文学作品とは別物と、
短歌には短歌の独特の鑑賞ルールやモラルがあるように言う人がいるが、
一人称で書かれ、私性こそが短歌を貫く根幹であり特質であるかのように言う人もあるが、
そんな程度の私性って何なのだろう。

属性を貼りつけた現実べったりなだけの短歌を誠実な短歌と呼ぶのだろうか。
「私」、実存としての「私」なら、全ての文学の根底にあって、
決して短歌の専売特許ではない。
単に表層の現実にのみ基づいた「私」でないだけだ。

短歌の新人賞に於いて、審査員が、
属性を貼りつけなければ短歌の読みが出来ないというなら、
読まなければいいのだ。

だいたい、人が書いた作品で、虚構でないものが一つだってあるだろうか。
意図的に企んだものでなくても、真実ばかりを書こうとした日記であっても、
いやでも何らかの虚構が入って来るだろう。
何らかのフィクション性を、ノンフィクション文学であっても内包しているものだろう。
それ以上でもそれ以下でもなく、完全に完璧に、素のままに、在りのままに書くというのも、これまた難しいものだろうと思う。

簡素で、簡潔で、素の美しさをもった文体の、
小説の神様と言われた志賀直哉の作品でさえ、過剰な部分はある。
在りのまま、素のまま、と言ったってそれは簡単ではない。
というか、一番難しいだろう。

人は様々な仮面をつけ、仮装を纏ってみたり、
或いは、一枚一枚剥がしてみたり、
土や釉薬の調合をしてみたり、
最後には、燃える火の温度に任せたりするものなのだ。

在りのままを書けと言われても在りのままも書けず、
香り立つ虚構を構築しろと言われてもそれも出来ず、
宙ぶらりんの状態で、短歌の周りを回っているだけの私たちなんじゃないかと
思っている。

祥  * 『短歌について』 * 12:15 * comments(2) * trackbacks(0)

不謹慎から文学は始まると言ってもいいだろうな。どこまで不謹慎でありうるか。

 澤村斉美さんが「短歌研究」九月号で書いた『不謹慎の文学』、
「日本中の空気が戦死者を称えるとき、
私は一人、不謹慎なことを言えるだろうか。
世界に批評の矢を放つことができるだろうか。」


まさに大事なことはそのことだ。
もともと傾き者のすることであり、
精神的にアウトサイダーであり続けることこそ、
詩歌を含めて、文学や演劇のあるべき姿。
祥  * 『短歌について』 * 23:46 * comments(0) * trackbacks(0)

むしろ私は、新人賞の受賞式に父親が そのことに驚いた

もちろん作中死んでいる父が健在であることにではなく。

今は普通のことなのだろうか。
大学の入学式や卒業式に父母が来るのも普通のことのようだし。
大人になった子供の晴れの式に来ていけないということは、
もちろんないわけで、今日ではそれが自然なことにもなっているようだ。
結婚式に出るような感覚なのかもしれない。

それでも私は驚いた。
もちろん批判する気持ちは全くない。自由なのだし。
ただ純粋に驚いたのだ。

短歌って、私は、ものすごくマイナーなイメージを持っていて、
爆弾作りや贋金作りをするわけではないが、
一人で書くものだと思っていたから、
今のみんな仲良しでつながって一緒に短歌しているような感じに、
最近はそうなのか、と思っていたけれども、
その上に、家族参加型になって来たのかな。
みんなで一緒に喜び祝い生きる。
自分を知られるくらいなら永遠に消えている。
そんなのと正反対の明るいオープンな形。

たぶんだから、全てはスルッとすり替ったのだ。
何事もなく、快晴の空に一片の雲もない明るさの中で。
境界の曖昧さ。
離乳分離以前の融合体。
意識の生体間移動。

一卵性生物の空間移動。
必然と言えば必然。
祖父が父であっても問題はない。
分け隔てる肉体の壁は消滅しているのだから。

文学はもともとそういうものなんだろうし。
だから鳥にも花にも獣にもなれるのだから、
人間であればまして誰にでも。

馬場あき子さんが、「前衛期の根底からの虚構とは全く違う、
ごく軽いフィクション」という意識さえ、あるような、無いような。
加藤治郎さんの問う「動機」も、この人の中では溶解している。
特に意味はないのだろう。当然のように「軽く」。
それが誰であっても、言葉は一つしかない。
後は、読み手が、何を受け取るか。



で、この問題に対する私の感想。
作品だけ読めばいいじゃない。と思う。
事実がどうだとか、情報の開示がどうだとか、
そんなことはどうでもいい。
全ては結局、作品に表れるのだと思う。
役者の演技に、演技以上に表れるように。
それが陶芸でも、絵でも、何でも。
作品にはすべてが表れるのだ。






祥  * 『短歌について』 * 21:56 * comments(0) * trackbacks(0)

その2 この問題を提起したのが、ガチガチの写実派の歌人ではなく

加藤治郎さん、ということで、
事は単純ではない。
問題の本質は何なんだろうと、
ちょっと考えてもみたくもなる。

映画や演劇、小説等と比較するまでもなく、
また、寺山修司や塚本邦雄や平井弘を挙げなくても、
虚構の父、虚構の母、虚構の兄の存在は
認知されている。
いないはずの人がいても、
いるはずの人が殺されていても、
誰も文句は言わない。
(それは有名な彼らだから、特権的に許されているのであくまでも特例なのだ。
という意見もあるかもしれないが。しかし驚くことでもないだろう。
それとも、それはモラルに反するとでも言うのだろうか。
【暗黙のルール】に反していると。)

それなのになぜ今また、と、
誰だって不思議と思うだろう。
まして、加藤治郎さんだ。

いつたいなぜ?と。
いまさら振出しに戻る以上、
そこには、新たな問題が浮上しているか、
はたまた、加藤治郎さんが、回帰したのか、と。

かつて新しい文体と手法を駆使し、
ニューウエーブの旗手と言われた加藤治郎さんが、
真剣に違和感を表明している以上、
そこには、深く考えてみるべき問題が潜在しているのかもしれない。
こちらも真剣に耳を傾けて聞いてみたい。
或いは、加藤氏も、単に頭が固くなっただけかもしれないが。



書かれた短歌自身に、直感的に何か清らかならざるもの、
何かしらの胡散臭さを感じたのなら、
作家の文学的直観を以って、その短歌を否定するのは当然だが、
(またそれ以外に、作家の感性対する信頼の拠点はないが。)
短歌それ自身としては評価しながら、
現し身のプロフィールが、作品に書かれたものと違っていたからと言って、
それ故に後から否定するのは変なんじゃないだろうか。



もしかしたら、私も、深い部分で、
肯定しているのかもしれない。
シンプルであること。
作家の、作品の虚構性は全然否定しないが、
残滓を洗い流したある心の、何といえばいいか、
深い魂の宿る底に於いて、しんじつの心の輝きが、あるかどうか。
それが歌の輝きに関係するような、しないような。
そんなところに、興味がある。

但しそれは、名を名乗れとか、
祖父を父として書くな、とか、そんなことではない。
応募時のプロフィール審査をもっと厳格にせよなど論外だ。

姿を変えても隠しても、
それでも在り得る、変わらぬ真実を書くのこそ、
文学だと思う。

それにしても唐突。
加藤治郎さんの指摘のことだ。
「虚構」を問うというふりをして守ろうとしているものは何なのか。
それは、短歌や文学そのものの問題ではなく、
別の問題ではないのだろうか。
それでなければ、全くこの唐突な問題提議の意味がわからない。
それが、私が、一応立ち止まって考えてみた結果の結論だ。

祥  * 『短歌について』 * 21:49 * comments(0) * trackbacks(0)

その1 東京新聞、加藤治郎さんと石川美南さんの対談 「肉親の死」の虚構 短歌に許される?

 こういうことが問題になるところが短歌なんだろうね。

肉親のこと、自分のこと、をもし、
全てそのままの形で提出しなければならないくらいなら、
私は短歌なんて書かなくていい。
真実の書き方は、いろいろあっていいのだろうと思う。
いろいろあるからこそ、
本当のことが書けるのだ。
真実のためにこそ、虚構はあるのだし、
手法も、生まれる。

出来うるなら、完璧な透明人間になり、
完璧な匿名性を持って書ければ一番いい。
しかし短歌界では、そんなことをすれば、
人間性を疑われ、何かしらの詐称問題になったりする。

このことについては、後でまた書くかもしれない。



東京新聞が、今回の議論の経緯を
わかりやすくまとめているので、
引用させていただく。

議論の経緯 

今年7月、弟57回短歌研究新人賞に石井僚一さん(25)の
「父親のような雨に打たれて」30首が決まった。
〈遺影にて初めて父と目があったような気がする ここで初めて〉
〈傘を盗まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて〉
など、父の死を描いた連作だが、受賞決定後に作者の父が健在であると判明。石井さんは地元の北海道新聞の取材に「死のまぎわの祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」と説明した。
これを受け、加藤治郎さんが、「短歌研究」誌上に寄稿し「虚構の動機がわからない」と疑問を呈した。
以降、肉親の死をフィクションとして詠むことに対する賛否両論が、雑誌やインターネット上で展開されている。

東京新聞 2014年11月26日 夕刊 5面 文化欄より

祥  * 『短歌について』 * 19:34 * comments(0) * trackbacks(0)
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