まとめて再掲。金井美恵子さんの短歌批判と歌壇の反応に関して書いた「銀河最終便」内過去記事

ご参照ください。

内野光子さんのブログ

〇自浄能力を失った歌壇か―「腰が引ける」とは(2018年3月9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/

 

以前、書いた文章ですが、

早稲田文学春号デビュー50周年特集号『金井美恵子なんか怖くない』

(2018.3 発行)を読んだので、

金井美恵子さんの当時の短歌界への指摘を読んだ時の、

当時の感想など、まとめて再掲しておきます。

金井美恵子 早稲田文学3月号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今さらもう何を言っても詮ないとすべてを諦めてゆくよ折節

大きな社会も小さな社会も社会はみんな同じで
短歌界なんてところも同じ仕組みで。

金井美恵子さんの指摘も、この世界には届かない。
そよりとも風も吹かない。
一木一草動かず、すべて世はことも無し。
本尊は安泰で、門弟三千人の世界は微動ともしない。
そのことを憂う人はいない。

何があっても権威は安泰、何があっても大樹の陰と 今日の日暮れはことに悲しく

金井美恵子さんが指摘した問題も、
この何とも言えない空気も、
権威の壁の厚さ、
誰も抵抗しない、
抵抗できない壁の厚さ。
なぜなら、全体が壁だから。

穂村弘さんの明晰さに救いを感じる 『短歌研究』座談会での、金井さんの指摘に対する発言

「短歌研究」2013年『短歌年鑑』の座談会
(佐佐木幸綱、島田修三、栗木京子、小島ゆかり、穂村弘)で、
金井美恵子さんの文章に触れている部分を読んだ。

穂村さんの、本質を衝 いた発言がある。
他の歌人は、 問題の周辺をうろついている。
中には、全く解っていない発言者もいる。
発言の無い歌人もいる。

栗木 「結局、第二芸術論のときの発言と変わらない。
島田 「もうちょっとひどいんだ。金井さんが言っているのは。
もう一つ、歌人の書く散文や批評の質が低いと言っている。
その質の低さというのが、また感心しないものを引用しているんだけれども、
要するに閉じた言語空間の中でお互いにヨイショしあっているんだろうと、
こういう批判をするわけです。
お互いだけが理解し合える世界の言葉でしか語っていないんじゃないの

というのが金井さんの論理。

いいものを見ていないんだ、あの人、全然。」
・・・中略・・・
穂村 「でも、他に本当にいい歌があるということで反論になるのかなぁ

という気もするんですよね。
短歌を解毒するという言い方とか、

何か僕は衝いているような気がしていて。
普通に言うと「風流夢譚」のほうがずっと毒に見えるんだけど、

だけどそうじゃない、
短歌の、ある言語空間のほうが毒なんだという。

これは直観的に当たっているような気がしますね。」
島田 「毒にも薬にもならないと言っているわけ。」
穂村 「それこそが実は毒だということなんだけど、

お茶とかお花とかだったら、先生がいて、
流派があって、段とか級みたいなものに、

師範のお免状があったり、はっきりしていますよね。
でも短歌は微妙に流派があるといえばあるけど、

そこまではっきりあるわけじゃないし、
段や級があるわけじゃないけど、欄によって、

偉い欄や、ちょっと初心者の欄があるみたいな。」
島田 「阿吽の何かね。」
穂村 「その共同体と表現との微妙な関係のすべてが

気持ち悪いと言えば気持ち悪いわけです。
また、これまでは結社と皇室のパラレルな感じとか

相似形として漠然と感じられていたところが、
たとえば永田家は歌の家という形で、

今回はっきり可視化されたところがあって、

金井さんはそこを意識したんだろうと思います。」

 

このほかにも、栗木京子さんの、
「ただ、たとえば岡井隆さんの『わが告白』とか、

それから河野裕子さん、永田和宏さんのエッセイ集が出たときに、

ご本人はそんなつもりはないんだけれども、

出版社側が、夫婦そろって歌会始選者であるとか、

岡井隆さんが御用掛であると広告とか帯に書くじゃないですか。

それがやはり私は問題ではないかと思っていますね。

短歌を知らない一般の人にエッセイ集を読んでもらおうとして

皇室を表に出さざるをえない。そこに金井さんは違和感を憶えたのでしょう。」

というような発言もあるが、
「ご本人はそんなつもりはないんだけれども」って、
ではご本人は、どんなつもりなのか、
どんなつもりもないというのだろうか。
栗木さんもお解りのように、
金井さんでなくても、違和感を感じるのが当たり前なのだ。

風間祥  * 『短歌について』 * 23:50 * comments(0) * trackbacks(0)

2、再び、金井美恵子さんの文章と歌人の反応の不思議さ

論考 たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する  
                           金井美恵子
     『KAWADE 道の手帖』  p76 〜p93  全18ページ。


どう読んでも、金井美恵子さんの文章は、至極尤もな文章で、
この論考のどこが、歌人の誰彼を怒らせているのかわからない。

述べられているのは、まったくその通り、
としか言いようのない事実だけである。
荒唐無稽な想像でも作られた戯画でもない。

本来なら、短歌の世界の内部から出て然るべき批判が、
歌壇外に追放されたくなく、仲間を失いたくない歌人に代わって、
ジャンル外の金井さんによって語られただけであって、
感謝をもって迎えるべき批判だ。

自浄作用が無いことを恥じることはあっても、
怒ったりなど考えることも出来ない。

岡井さんの原発に対する意見や、論旨、
引用されている、日経誌上に発表し、
著書『わが告白』にも書いた認識違いの数々の文章、
告白とは名ばかりの「自慢話」
皇室の威光を中心とし一族郎党相伴って短歌下僕を侍らせる
ピラミッド的ヒエラルキーの肯定。
蔑まれても仕方がないとしか言えない。

同じく、夫妻で歌会始選者を務め、
死に至る経過の一部始終を、紙媒体やTVで近接撮影・放映を
許可した永田一家の在り方。
「現象」と表現した皇后。
国民大衆と皇室と歌人の関係。

歌人が、歌会始選者であり皇室御用掛であり「未来」代表であり
有力で高名な弟子を数多く抱える岡井氏を慮り、
同じく生前歌会始選者を夫妻で務め、
人気結社「塔」の主宰である永田夫妻を慮って、
「未来」や「塔を」敵に回し、歌壇を敵に回す勇気のない歌人たちが
誰も口に出来なかった批判を、
というより、違和にさえ感じなかった感覚麻痺の歌人たちに代わって、
作家であり詩人である金井さんが、発しただけのこと。

当然出されていい疑問、当然問わなければいけない姿勢。
短歌界の中からでも、外からでも、どこからでも。

金井さんは、当たり前のことを言っているだけだ。
それを、短歌に対する蔑視だ嫌悪だと恥ずかしくはないのだろうか。
そんな調子なら、揶揄や嘲笑、蔑視や嫌悪を受けても、
当然の帰結だとも言える。

「揶揄と嘲笑」というが、されるようなことをしているのだ。
短歌界は、自分で自分の姿が見えないようだから、
文学の隣人が鏡を用意してくれただけだと解している。


 

風間祥  * 『短歌について』 * 20:17 * comments(0) * trackbacks(0)

1、大辻隆弘さんの毎日新聞「短歌月評:「短歌否定論」を読んで

 
 
短歌月評:「短歌否定論」=大辻隆弘
毎日新聞 2012年11月19日 東京朝刊
 
作家・詩人の金井美恵子が「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚(むたん)』で短歌を解毒する」(『道の手帖(てちょう)・深沢七郎』)という短歌否定論を発表している。
 
金井はこのなかで、短歌を「大衆に支持される巨大で歴史的な言語空間」として規定し、そこに歌会始を頂点とする天皇制のヒエラルキーを見てとっている。彼女は、岡井隆が皇室に関わり、皇后陛下が河野裕子の歌を愛好されていることをその証拠として挙げる。
 
金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を「和歌」と見なし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない。
 
戦後、短歌は俳句と並び第二芸術論という激しい否定論に曝(さら)された。その背後には、敗戦を機に噴出した日本文化に対するヒステリックな劣等視があった。金井はおそらく、少女期にそのような風潮のなかで短歌と出会ってしまったのだろう。彼女は「<広島がいいね>とトルーマンが言ったので八月六日は原爆記念日」という自作歌を披露してもいるが、このようなものを本当に短歌だと考えているのだとすれば認識が浅すぎる。
 
金井の短歌蔑視の背景には、突き詰めれば、日本語や日本という共同体への深い嫌悪があるのではないか。嫌悪する日本語によって思いを綴(つづ)らざるを得ない、という屈折した自意識は、挿入句の多い難渋な彼女の文章にも滲(にじ)み出ている。が、その鬱憤を短歌に向けられては、たまったものではない。
 
短歌は言語芸術の一ジャンルである。それ以上でも、それ以下でもない。虚心坦懐(きょしんたんかい)でフェアな目が強く希求される。(おおつじ・たかひろ=歌人)
 

 

王国が侮辱され侵害されたといわんばかりの
大辻さんの反応、
驚いた。

 

因みに、金井美恵子さんの文章に関しては、
松村正直さんや、『短歌年鑑』(角川短歌1月号増刊)の中でも、
三枝昴之、川野里子、島田修三さんが、触れている。
 
「短歌に対する執拗なまでの侮蔑と嫌悪感」
(『短歌』9月号「歌壇時評:短歌への嫌悪感」松村正直)とは、
いったいどのようなものなのだろう。
というより、なぜ、そのように、歌人が感じるのか。
非常に興味深い。

「短歌は言語芸術の一ジャンルである。
それ以上でも、それ以下でもない。
虚心坦懐(きょしんたんかい)でフェアな目が強く希求される。」
と、立派なことを書きながら、
「が、その鬱憤を短歌に向けられては、たまったものではない。」
と捉える大辻さんの文も、フェアなものではないと感じる。

何よりも、このような見方は卑怯だということに、
大辻さんは気づいていないのだろうか。
問題はこちら側にあるのではなく、金井さんの資質にあるかのような書き方であって、
短歌自身の問題点には、一切目を向けようとはしていない。

 
「金井の短歌蔑視の背景には、突き詰めれば、
日本語や日本という共同体への深い嫌悪があるのではないか。
嫌悪する日本語によって思いを綴(つづ)らざるを得ない、
という屈折した自意識は、挿入句の多い難渋な彼女の文章
にも滲(にじ)み出ている」

金井さんの「屈折した自意識」が、短歌蔑視の原因だと言いたいのか。
「日本文化に対するヒステリックな劣等視」をする時代に、
「少女期にそのような風潮のなかで短歌と出会ってしまった」ことが、
このような文章を書かせることになった原因だというのか。
全ては、書き手の感性の問題だと。

まるで、日本を批判をしたからと言って、日本が嫌いなら
日本から出て行けという嫌韓・嫌中の人たちと変わらない発想だ。
日本語を独占物のように考えているのだろうか。
いったいなぜ、短歌の在り方を批判したら、
日本を愛していないことになり、日本語を愛していないことになるのだろう。
傲慢な決めつけに過ぎない。



岡井隆氏や河野裕子さん(永田一家)に対する疑問や批判が
禁忌ともなっているかのような短歌界の現状を見る限り、
金井さんの指摘は、別に病的な怨念や
不自然なトラウマによるものとは思えない。

極めてまっとうな批判としか思えない論考について、
あからさまな無視、あるいは全面拒否以外の対応がないとは、
短歌界の閉塞性をそれ自体が裏書きするようだ。

現在の短歌の世界では、岡井隆氏を批判することは、
師事しつながるすべての歌人を敵に回すことに他ならない。

短歌の世界の在り様が、短歌以外の世界から
批判されたからと言って、
短歌への執拗な蔑視だ嫌悪だと言って
全否定するスタンスというのはいったい何だろう。

ただ、心のうたであり、文学であるべき短歌に、
自ら必要以上の綺羅を纏わせようとしたのは誰だ。
いったい誰がそうしたのだ。
誰がことさらに好んで天皇家へ近づき
その権威のもとにかしずくことを選んだのだ。
それでいいのかと問われているのだ。
なぜ誰もみな貝のように口を噤んでいるのかとも。



外からの目線を全て拒否か無視  いつの時代もそのようにして

 

 

風間祥  * 『短歌について』 * 23:31 * comments(0) * trackbacks(0)

経歴に注目をして読んでいる なるほどなるほど甲斐の若獅子

・誰の声も聞こえないからあなたの声も忘れたふりをして二年半

 

・貝殻に宿る真珠があるように夜の入り江にかかる月影

風間祥  * 『短歌について』 * 01:49 * comments(0) * trackbacks(0)

鳥居という人の文章を読むと、短歌というものに、まだそんな力があったのかと

 不思議な感じを受ける。
「短歌」を信じ、短歌の力を信じ、表現の力を信じ、他者をいざない、
「絶望を分かちあう」ことで、絶望から救われるという。
分かちあえる人なんて、ほんとにいるのだろうか。
絶望が、それで絶望でない何かになるというのではなく、
絶望は絶望のままで、稀釈されるわけでもなく、
共有される絶望なんだろうか。
虚無というわけではなく、
まだ親愛の感情の入り込める余地のある、
他の人も、同じような深い絶望を感じていると信じられる、
他者への信頼が、まだ残っている、
文学への憧憬も共感も残っている。
「短歌」によって、救われる心があるという。
分かちあうことの出来ない絶望については、
鳥居論を執筆中の岩川ありささんや、
小児科医の熊谷晋一郎さんはどう考えているだろう。

「彼らにとってオウム真理教は唯一自分を認めてもらえ、
ありのままでいてもいい場所」となった。でも彼らが短歌と出会っていたら、
その創作の世界に『居場所』を見つけられたかもしれない」
「孤独な人、生きづらさを感じている人にこそ、短歌を勧めたい」
と、鳥居さんは言う。
短歌によって、孤独から救われるということは無いと思いながら、
他者の共感を信じている。それが鳥居さんの短歌のようだ。

短歌に限らず、文学は、すべてそうだと言えば、そうだけれど、
一方で、?という思いも残る。
短歌を武器として使うことには、私にはどうしても違和感がある。
他者への勧めにはなおさら。
その種の共感に対しても、何かが違う気がする。
血で書く、という行為も、鳥居さんには叫びであり、必然であったかもしれないが、
そこで乖離してしまうものを感じた。



連載している東京新聞や、「鳥居論」の人も、
<差し伸べる手>の部分に注目しているようだ。
他者に対して、、「手を繋ぐくらいならできると思います」というところ。
閉じこもるのではなく開く、力にはなれないまでも声を聞き、手をつなぐ。
居場所のない人の居場所とさえなると、短歌を信じ、同じく生き辛い人に、
「生きつらいなら短歌を書こう」と、手を差し伸べようとする姿勢に、
希望に似たものを感じているのだろう。

生きづらいこの世を、短歌を書き、読み、つながることで、
共に生き抜こうとする鳥居さんの姿に。

それっていうのは、結局、ひたすら孤独に落ち込んで自殺に至った母親の対極の在り方だよね。
母親の生と死を見つめながら、彼女が学びとった生き方なんだろうな。

現実以外に、別の宇宙があるように、鳥居さんにとって、
短歌はまだ、夢の世界なのだろうか。
鳥居さんの生き方は、芸術とは何か、という問題も投げかけている。
よく問われる「飢えた子どもにとって、文学は何の役に立つのか。」という問題とも関連しているが、
その直線上にはない答えこそほしい。
風間祥  * 『短歌について』 * 01:29 * comments(0) * trackbacks(0)

東京新聞 鳥居 セーラー服の歌人 4  


・思い出の家壊される夏の日は時間が止まり何も聞こえぬ

・慰めに「勉強など」と人は言ふ その勉強がしたかつたのです



   ※短歌引用 東京新聞 鳥居 セーラー服の歌人 4  4月9日夕刊より




ぎりぎりで哀切な母娘の関係。
今は、わが子わが親でも遠慮がちな、淡白な関係が多いけれども、
鳥居さんのお母さんと鳥居さんの関係は、烈しい愛と傷みを共有する。
ある意味、聖母子のように、永遠に切り離されることがない、
生死を分かった後も、深く関わっている。

自死した母親が灰色になってゆくのを為すすべもなく
みつめ続けたその日が消えることのない記憶となっている。
自分だけを愛し、自分だけを頼り必要とした、
精神を病む母親の、孤独ゆえに屈折した深すぎる愛。
第三者のいない、二人きりの、抜き差しのならない関係。

愛おしく思う心と、その羽交い絞めされるような愛から逃げたく思う心。
覆い被さって来る重圧や心配が、母親の死で突然消えて、
永遠に追われることのない解放感と、同時に感じる雪降るような淋しさ。
苦しみの多い生を終え、魂となった母と、
生の側に、置き去りにされた、セーラー服の歌人。

風間祥  * 『短歌について』 * 22:14 * comments(0) * trackbacks(0)

世田谷は四月に雪のふるところ いや五月にも降るらんよ、降れ /坪野哲久

今日は、まさしくこんな日でしたね。

風間祥  * 『短歌について』 * 16:54 * comments(0) * trackbacks(0)

鳥居  セーラー服の歌人 / 文 岩岡千景(東京新聞)

昨日から連載が始まった。

第一回と二回を読んだが、
これで終わるのではなく、
連載とあるので、続きがあるのが嬉しい。
久しぶりに興味を持って、
読める文章に出会った。



・花柄の藤籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした母 

・あおぞらが、妙に乾いて、紫陽花が、あざやか なんで死んだの 



 ※短歌引用 東京新聞「鳥居 セーラー服の歌人」(第二回2015年4月7日)より
風間祥  * 『短歌について』 * 22:32 * comments(0) * trackbacks(0)

虚構がどうとかって言っている人は現実だけで生きたらいい

そもそも、「短歌研究」の選評を読むと、
何年も何年も、というより、いつでも、
作者の属性ばかりを問題にしている。
性別、年齢、職業あてクイズのように。

実存的観点からの批評ではなくて、
想像した作者のプロフィールから読み込もうとばかりしている。
およそ文学の鑑賞でも評価でもない。

昔、私たちが子供だった時、
初めて物語に接したとき、
時間も忘れて夢中になって読んだ本の作家名や
その人の経歴を知ってから読んだだろうか。
知らなくても、その内容に飛びこんで行ったものだ。

時代も国名も、作者がどんな人であるかも知らず、
それでも十分だった。

もちろん、より深く知りたくなって、
もっと沢山その人の書いた小説を読みたくなって、
作家について調べたり、
その他の作品を読んだり、他者による批評や、研究にも興味を抱くようになることもあるが、それが全てではない。

短歌は一般の文学作品とは別物と、
短歌には短歌の独特の鑑賞ルールやモラルがあるように言う人がいるが、
一人称で書かれ、私性こそが短歌を貫く根幹であり特質であるかのように言う人もあるが、
そんな程度の私性って何なのだろう。

属性を貼りつけた現実べったりなだけの短歌を誠実な短歌と呼ぶのだろうか。
「私」、実存としての「私」なら、全ての文学の根底にあって、
決して短歌の専売特許ではない。
単に表層の現実にのみ基づいた「私」でないだけだ。

短歌の新人賞に於いて、審査員が、
属性を貼りつけなければ短歌の読みが出来ないというなら、
読まなければいいのだ。

だいたい、人が書いた作品で、虚構でないものが一つだってあるだろうか。
意図的に企んだものでなくても、真実ばかりを書こうとした日記であっても、
いやでも何らかの虚構が入って来るだろう。
何らかのフィクション性を、ノンフィクション文学であっても内包しているものだろう。
それ以上でもそれ以下でもなく、完全に完璧に、素のままに、在りのままに書くというのも、これまた難しいものだろうと思う。

簡素で、簡潔で、素の美しさをもった文体の、
小説の神様と言われた志賀直哉の作品でさえ、過剰な部分はある。
在りのまま、素のまま、と言ったってそれは簡単ではない。
というか、一番難しいだろう。

人は様々な仮面をつけ、仮装を纏ってみたり、
或いは、一枚一枚剥がしてみたり、
土や釉薬の調合をしてみたり、
最後には、燃える火の温度に任せたりするものなのだ。

在りのままを書けと言われても在りのままも書けず、
香り立つ虚構を構築しろと言われてもそれも出来ず、
宙ぶらりんの状態で、短歌の周りを回っているだけの私たちなんじゃないかと
思っている。

風間祥  * 『短歌について』 * 12:15 * comments(2) * trackbacks(0)

不謹慎から文学は始まると言ってもいいだろうな。どこまで不謹慎でありうるか。

 澤村斉美さんが「短歌研究」九月号で書いた『不謹慎の文学』、
「日本中の空気が戦死者を称えるとき、
私は一人、不謹慎なことを言えるだろうか。
世界に批評の矢を放つことができるだろうか。」


まさに大事なことはそのことだ。
もともと傾き者のすることであり、
精神的にアウトサイダーであり続けることこそ、
詩歌を含めて、文学や演劇のあるべき姿。
風間祥  * 『短歌について』 * 23:46 * comments(0) * trackbacks(0)

むしろ私は、新人賞の受賞式に父親が そのことに驚いた

もちろん作中死んでいる父が健在であることにではなく。

今は普通のことなのだろうか。
大学の入学式や卒業式に父母が来るのも普通のことのようだし。
大人になった子供の晴れの式に来ていけないということは、
もちろんないわけで、今日ではそれが自然なことにもなっているようだ。
結婚式に出るような感覚なのかもしれない。

それでも私は驚いた。
もちろん批判する気持ちは全くない。自由なのだし。
ただ純粋に驚いたのだ。

短歌って、私は、ものすごくマイナーなイメージを持っていて、
爆弾作りや贋金作りをするわけではないが、
一人で書くものだと思っていたから、
今のみんな仲良しでつながって一緒に短歌しているような感じに、
最近はそうなのか、と思っていたけれども、
その上に、家族参加型になって来たのかな。
みんなで一緒に喜び祝い生きる。
自分を知られるくらいなら永遠に消えている。
そんなのと正反対の明るいオープンな形。

たぶんだから、全てはスルッとすり替ったのだ。
何事もなく、快晴の空に一片の雲もない明るさの中で。
境界の曖昧さ。
離乳分離以前の融合体。
意識の生体間移動。

一卵性生物の空間移動。
必然と言えば必然。
祖父が父であっても問題はない。
分け隔てる肉体の壁は消滅しているのだから。

文学はもともとそういうものなんだろうし。
だから鳥にも花にも獣にもなれるのだから、
人間であればまして誰にでも。

馬場あき子さんが、「前衛期の根底からの虚構とは全く違う、
ごく軽いフィクション」という意識さえ、あるような、無いような。
加藤治郎さんの問う「動機」も、この人の中では溶解している。
特に意味はないのだろう。当然のように「軽く」。
それが誰であっても、言葉は一つしかない。
後は、読み手が、何を受け取るか。



で、この問題に対する私の感想。
作品だけ読めばいいじゃない。と思う。
事実がどうだとか、情報の開示がどうだとか、
そんなことはどうでもいい。
全ては結局、作品に表れるのだと思う。
役者の演技に、演技以上に表れるように。
それが陶芸でも、絵でも、何でも。
作品にはすべてが表れるのだ。






風間祥  * 『短歌について』 * 21:56 * comments(0) * trackbacks(0)

その2 この問題を提起したのが、ガチガチの写実派の歌人ではなく

加藤治郎さん、ということで、
事は単純ではない。
問題の本質は何なんだろうと、
ちょっと考えてもみたくもなる。

映画や演劇、小説等と比較するまでもなく、
また、寺山修司や塚本邦雄や平井弘を挙げなくても、
虚構の父、虚構の母、虚構の兄の存在は
認知されている。
いないはずの人がいても、
いるはずの人が殺されていても、
誰も文句は言わない。
(それは有名な彼らだから、特権的に許されているのであくまでも特例なのだ。
という意見もあるかもしれないが。しかし驚くことでもないだろう。
それとも、それはモラルに反するとでも言うのだろうか。
【暗黙のルール】に反していると。)

それなのになぜ今また、と、
誰だって不思議と思うだろう。
まして、加藤治郎さんだ。

いつたいなぜ?と。
いまさら振出しに戻る以上、
そこには、新たな問題が浮上しているか、
はたまた、加藤治郎さんが、回帰したのか、と。

かつて新しい文体と手法を駆使し、
ニューウエーブの旗手と言われた加藤治郎さんが、
真剣に違和感を表明している以上、
そこには、深く考えてみるべき問題が潜在しているのかもしれない。
こちらも真剣に耳を傾けて聞いてみたい。
或いは、加藤氏も、単に頭が固くなっただけかもしれないが。



書かれた短歌自身に、直感的に何か清らかならざるもの、
何かしらの胡散臭さを感じたのなら、
作家の文学的直観を以って、その短歌を否定するのは当然だが、
(またそれ以外に、作家の感性対する信頼の拠点はないが。)
短歌それ自身としては評価しながら、
現し身のプロフィールが、作品に書かれたものと違っていたからと言って、
それ故に後から否定するのは変なんじゃないだろうか。



もしかしたら、私も、深い部分で、
肯定しているのかもしれない。
シンプルであること。
作家の、作品の虚構性は全然否定しないが、
残滓を洗い流したある心の、何といえばいいか、
深い魂の宿る底に於いて、しんじつの心の輝きが、あるかどうか。
それが歌の輝きに関係するような、しないような。
そんなところに、興味がある。

但しそれは、名を名乗れとか、
祖父を父として書くな、とか、そんなことではない。
応募時のプロフィール審査をもっと厳格にせよなど論外だ。

姿を変えても隠しても、
それでも在り得る、変わらぬ真実を書くのこそ、
文学だと思う。

それにしても唐突。
加藤治郎さんの指摘のことだ。
「虚構」を問うというふりをして守ろうとしているものは何なのか。
それは、短歌や文学そのものの問題ではなく、
別の問題ではないのだろうか。
それでなければ、全くこの唐突な問題提議の意味がわからない。
それが、私が、一応立ち止まって考えてみた結果の結論だ。

風間祥  * 『短歌について』 * 21:49 * comments(0) * trackbacks(0)
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