『長生き地獄』 松原惇子著

第一章 長生きが怖い

 

第二章 長生き地獄の現場から

─それでもあなたは延命を望みますか。

 

第三章 わたしたちの最期はどうなるのか

 

第四章 安楽死はいけませんか

─オランダ安楽死協会を訪ねる

 

第五章 いい死に方をするために

─今から考えておきたい10のこと

 

第六章 どう死ぬかは自分で決めたい

 

(抜粋)

お年寄り2人暮らしの限界を感じざるをえない。

夫婦だろうが姉妹だろうが、友達同士であろうが、

同年齢の同居には限界がみえる。

こういう場合、最後に安価で入居できる施設が必要だろう。

2025年問題は、安価で入居できる施設をたくさん造ることでしか、

解決しないのではないだろうか。

福祉予算削減目的の政府は、在宅介護を推し進めているが、

施設増設こそ急務だと思う。

今のままだと、長生きすればするほど共倒れとなりかねない。

━中略ー

マンションから有料老人ホームへ転居する姉妹も多い。

早めの老老生活ということだろうが、

経済的にそれができる人はいいが、できない人は

どうしたらいいのか。

 

地獄を味わえというのか。

お金を貯めてこなかったあなたが悪いというのか。

自己責任とは言わせない。

 

日本は冷たい、今からでも遅くないので、

政府は、道路を造るのをやめて、

お年寄りの最後の受け皿をつくってほしい。

 

インドに死を待つ家があるそうだが、
死が近づいてきたら、そこに行き、
そこで何も食べずに死を待つ。そして死ぬ。
そして遺体は、ガンジス河に流され、自然の循環に還る。
インドの死生観からわたしたちは学ぶべきものがありそうだ。
死を待つ家があるインドが羨ましい。

 

松原惇子著╱『長生き地獄』より

 

 

風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 21:36 * comments(0) * trackbacks(0)

『長女たち』篠田節子

 

恐ろしく重苦しい、

凄まじい小説だ。

小説家というものの、

想像力の凄さにも感心する。

少々読んだことを後悔する。

 

三つの短編に分かれていて、

最後の三番目に置かれた短編だけが

何とか斜め読み飛ばし読みではなく読めた。

 

人間の闇の部分に触れて、

触れてはいけない部分にも触れて、

悪魔も恐れるほどの人間の心の襞に分け入って行くのが

小説家の使命だろうが、人間とは、

凄まじく強い生命力を持って、

自他をその戦いの中において引かないもの、

死にかけている病人でも強いもの。

死にかけている病人だからこそ、

何よりも強いもの、

たとえ100歳の老婆でも、

その弱者性に於いて、

強者たることが出来、

他者よりも自分を貴ぶものと。

 

羅生門かどこかで、痩せ衰えた老婆に、

衣はおろか、髪の毛までも奪われる屈強な下人になった気がする。

 

 

『長女たち』を読むと、

ある意味、世界観が一変する。

そのように書かれている。

そして、作者の書くように、

まさにそのまま、世界はそのようなもの。

人間とはそのようなものと追認する。

 

作者が読者を洗脳するのではない。

普段は常識的な見方で隠されている

物事の本質が顔を出すのだ。

 

例えば、「弱者」

「老い」や「病気」

すべて、強者となる。

そのマイナスを掛ければ、

もの凄い力となって逆襲するように。

 

老いた寝たきりの病人は、

若い健常者を奴隷の位置におとしめると同じ力を発揮する

強者となる。

 

その人を見捨てることの出来ないという点で、

他者に対して、結果的に強弱転換するパワーを持つ。

 

それが家庭内で起これば家庭内の、

家庭内から漏れ出して、

社会で面倒を見ることになれば社会で。

 

数々の殺人事件は、

ギリギリの鬩ぎあいの中に生まれる生命と生命の闘争。

その病人を放置すれば、

液晶の滲みが広がり、機器全体を壊すように、

埋めても沈めてもはみ出し、

浮かんで来る生体かのように、

周囲は捨てておくことが出来ない仕組みになっている。

 

その点で、完全なる強者とは、

完全なる弱者という構図。

しかも、それを、表面上は愛と優しさに変換する。

双方の無意識の乗り入れ。

唯一の受容方式。

 

老人も病者(この小説では、

治る見込みのない父であり母)も、

結果的に、その状態が酷くなれば酷くなるほど、

強者となる。

 

弱者になればなるほど、

強者になるというパラドックスが完成する。

 

そして、彼らが死を迎えるまで、

その関係が変わることはない。

病者は、弱者性を増すほど、

健常者を従えてゆく。

最後に見送るまで、

逆転したことの自覚なき奉仕者。

 

一人を食んで食み尽くせば、

次へ流れていくマトリックスでもある。

一人でとどまるとき、

その対象は、作者によれば、

ゆえ知らず、そのような立ち場になることが多いのは、

運命づけられたとでもいうように、

それは大抵、「しっかり者の長女たち」と。

 

例えば、第一編や第三篇の登場人物、

(第二篇は、一人しかいなくて、

その一人が海外の僻地医療に女医として赴任するので、

父親は、主人公が帰ってみれば石化している。)

二人いて、一人は合法的に見捨てることを厭わない。

また親も覚悟している。

 

親の胎内にある時から、

親は、一人を自己のコピーのように同一視し、

一人を他者と認識し、自己と一体と認識している方を、

自己保存のために使う。糖尿病が悪化して糖尿病性腎症となり、

最後の手段として腎移植を選ぶかどうか、適合するかどうかとなった時、

母親は、事も無げに言う。

母親「自分の体と同じだもの」

慧子「自分の体と同じ?」

母親「自分の一部のようなものだもの」

献身的な介護を続けているうちに、

『無意識のうちに、母の暗黒の胎内に戻ろうとしていた』

『限界はとうに越えていた。

自分でそのことに気づかなかっただけで。

殺すか、逃げるか。循環する血液も思考回路も共有する不気味な結合体』

 

『一刻の猶予もない。この手で母を殺してしまう前に離れて行かなければならない』

とは、書かれているものの、この主人公は、結局、離れて行けないかもしれないと、

感じさせられる。

 

死が分かつまで、切れないかもしれないと思わせられる。

終章の後も、永遠に車椅子を押し続けるのではないか。

施設に預けても、或いは死後でさえ、幻の車椅子を押し続けるのではないか。

 

どのように思おうとも、突き放せない。

突き放すごとに、えぐりとられる心の肉塊。

羅生門の下人の髪を掴んで放さず、逃げようとすればするほど

しがみつく老婆のように。

車椅子のグリップを、主人公が放せない原因は、

何よりも、母親が、今にも死にそうな「弱者」であるから。

そして逡巡なく娘に愛を求めることの出来る生物上の強者であるから。

 

愛という名であれ、我が半身という認識であれ、

自己保存の本能は、正しく行使され、

もう一人の子どもである「他者」には気を使い、

「だめよ、移植のことなんかあの子に言ったら絶対だめ。

病気でもない体にメスを入れさせて、万一のことがあったら。

誰がそんなことをさせたいものですか、将来どんな病気になるかしれないのに」

と、

「半ば予想した答え」が返って来る。

 

『一心同体。二人の子供のうち、方や愛する者、方やまぎれもない自分の一部。』

もう一人の他者性を有する子どもは、可愛がる存在で、傷つけてもならない存在で、

甘えていい存在ではないのだ。

 

自己の半身には、遠慮しない。

同じ子供でも、他者性を認める者には気を遣う。

人間は、そのように種の保存をして生命をつないで来た。

 

一人しかいなければどうであろうか。

自己自身に等しいと認識するのだろうか。

他者なのだろうか。

全くの血縁関係のない他者ではどうだろうか。

人間は、自己を保つためには、

何人をも食む属性を持っているらしい。

 

そのようにしか、生命は連鎖できないのかどうかは知らず、

ただ、幼い子供だけが例外であるらしい。

動物も、種が違っても、乳を与え保護する。

大人同士になった種には、そのようなことはなくなり、

自己の遺伝子を繋ぐ種の本能に立ち返ると言われる。

 

木は立ち枯れる。

落ち葉を落とし腐葉土とする。

生命は実の形で森に残る。

自らが枯れて、光を森に入れる。

 

風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 04:48 * comments(0) * trackbacks(0)

田中弥生さん/『乖離する私−中村文則』、『スリリングな女たち』

田中弥生さん

ご冥福をお祈りします。

 

風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 09:37 * comments(0) * trackbacks(0)

水村美苗さんの講演会 「漱石と日本と日本語と日本文学」

昨日、横浜の中華街の駅で降りて、坂の上の神奈川近代文学館に行って来た。
芥川も森茉莉も、好きな作家はみんな死んでしまっていて、
生きて会うことは出来なかったが、
水村美苗さんは、現存の作家だから、
初めて生きて会える(見る)ことのできる憧れの作家ということになる。

講演は2時から始まって何時までだったか、時間を見なかったが、
講演が一通り終わってからの質問コーナーで、
答えている水村美苗さんが面白かった。

結構早口で、時々どもり気味になりながら、
時々、大笑いもしながら、質問に答えていた。



帰りに、「100年目の漱石」ということで、
展示室に漱石の軌跡を追った展示品があるというので寄ってみた。

まず最初に、入口を入ったところで、驚いてしまった。
家の書棚がある。三段式の100年ほど前のものだが、
現役で私が使っている。
我が家で見たほかに、どこでも見たことのない古い形式のものだ。
漱石山房を再現した部屋。
愛用の火鉢や、紫檀の机、硯などと一緒に、
漱石の座った背後に置かれていたらしい。
漱石は、その書棚の他にも沢山の書棚を使っていたということで、
パンフレットに映っているのは、他のデザインのものだ。
家のと同じのは、双子のように似ているが、
漱石山房の方が、少し材質が柔らかい感じで、我が家の方が堅い材質だ。
そして我が家のは洋風で、漱石山房のは和風だ。
にも関わらず、そっくりと感じるほど本当によく似ている。
兄弟に会ったように懐かしい気がしたから、
それが映っていたら買おうかなと思ったけど、
他の写真は沢山映っているのに、
最初の展示室の漱石山房の居室の写真だけがなかった。
漱石が座っている居室の写真もあるが、それは展示室の清閑なものでなく、
雑然とした山積みの本と一緒のものだった。
もしかしたら特別展と常設のもので分けているのだろうか。
漱石山房のあのコーナーだけはいつもあるのかもしれない。
私は、神奈川近代文学館は初めてだったからわからないが。



それから中へ入って行くと、原稿用紙や初版本や絵もあった。
漱石は絵がとても上手だ。
昔の文人というのは、本当に博識で、
小説のひらめきや思いつきも英語で書いてあったり、
(英語で考えていたのだろうか。)
正岡子規ほか、知人との手紙のやりとりも頻繫だったようだ。
漱石の字は、向かって左へ流れる癖があったんだね、とも思った。
生い立ち、家族、兄弟のことが最初の方にあったが、
若く亡くなった長兄という人の写真が、森鷗外の写真に似ていた。



漱石は、明治の日本が幸運にも得た奇跡だと、
水村美苗さんは言っていたが、
私はあまり漱石を読んだことが無いからわからない。
「夢十夜」の一節が飾ってあって、
「100年待つ」なんて、ロマンチストだったんだな、と思った。

 
風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 18:24 * comments(0) * trackbacks(0)

辻邦生・水村美苗『手紙、栞を添えて』

18年も前に購って、度々の断舎利にもめげず、
私の本棚に残っていた(ほったらかされていた)本。
辻邦生さんと水村美苗さんの往復書簡。


「つまらぬ、くだらぬ・・・・・これが一生か、一生がこれか」
樋口一葉の『にごりえ』の一節も引用されている。

一度も面識のない、一度は病院にお見舞いにも行きながら、
あえて会おうとしなかった二人の、文学をめぐり、生をめぐり、
蛍が明滅するように飛び交う思念が記され、
書くことの根源的な意味が語られている。
読後、『嵐が丘』が読みたくなった。



「さて、どこから始めましょう。
そう。まずは告白から始めることにいたします。
こうして辻さんとの朝日新聞での連載が終わった今、辻さんは、
私にとって、世にも特別なかたとなってしまいました。
生きているかぎり、なんとしてもお目にかかりたくない、
唯一のかた━━、本当に唯一のかたになってしまったのです。
ものを書くかたにはふだんから会いたいとは思いません。
でも会う機会が偶然ふってわいたら、その場から逃げ出そうとは思わない。
ところが、辻さんは別です。もしどこかで偶然ご一緒になるようなことになったら、その場で煙のように消えてしまいたい。
いったいいつから、かくも特別なかたになってしまったのでしょうか。」
       『手紙、栞を添えて』プロローグ 最後の手紙 より




久しぶりに読んで、
続いて、全てずいぶん前に書かれた本だが、
『日本語が滅びるとき』、『母の遺産』上・下
そして、水村美苗さんの母である水村節子さんが
70歳を越えて初めて書いた小説という『高台にある家』も読んだ。    
やはり、小説は重たく、
『手紙、栞を添えて』が一番良い。

アントン・チェーホフと女優オリガ・クニッペルの
『チェーホフとクニッペルの往復書簡』も読み直した。
風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 13:05 * comments(1) * trackbacks(0)

いい本を読んだよ今日は 平川克美さんの『俺に似たひと』
















この本のよさは、読んでみないとわからない。

風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 23:09 * comments(0) * trackbacks(0)

『ホームレス博士』/水月昭道・『発達障害に気づかない大人たち』/星野仁彦

『ホームレス博士』/水月昭道(みづきしょうどう)
光文社新書 

大量に生まれた博士。
大量に生まれた非正規雇用の教員(非常勤講師・研究員)。

ボーナス・退職金の非支給は勿論、雇用保険もない。
大学側からすれば、いつでも首を切れる安く使える使い捨てのコマに過ぎない、
どんな意味でも、保障というものからは縁遠い存在。

専任教員(教授、准教授、講師)とは、
天と地ほどの待遇格差、給与格差を受け入れる他に、
臨時的にすら明日の職場を持てない雇用形態。
期間満了後の雇用延長は、運にまかせるほかはない。
約束されているのは、身分の不安定さと低所得。
極めて短い雇用期間が終れば、非正規の、先生と名のつく仕事を探すか、
食べるために、職種を選ばないアルバイト探しをするか、
どちらにしても、生きるためのギリギリの闘いの日々が待っている。
蓄えも出来ないまま雇い止めになれば、生活に困窮し、
「ホームレス博士」にならなければ幸いというだけの。



『発達障害に気づかない大人たち』/星野仁彦(ほしのよしひこ)
祥伝社新書

【「片づけられない」「すぐ切れる」「話を聞けない」
───子どもたちではありません  
あなたのことです!!帯文より



ADHD(注意欠陥、多動性障害)
アスペルガー症候群」「自閉症」「学習障害」など、
(とりわけ学習成績も優秀な子どもの場合、
そのまま気づかれず大人になってしまう場合が多いという。)

不注意・注意散漫、成績の偏り、飽きっぽさ、凝り性、衝動性、
仕事の先延ばし、期限が守れない、ストレスへの過敏反応、
空気が読めないといった対人スキル、社会性の未熟、等々。

大抵の人にいくらかは思い当たる性癖、性格とのみ思われていたことが、
微細脳の欠陥を原因とした発達障害でありうる可能性があることを示唆し、
その対処法や治療法を述べる。

風間祥  * 『読書/単行本・新書』 * 15:03 * comments(0) * trackbacks(0)
このページの先頭へ