廃墟の光


  廃墟の光





                            風間 祥

                         

         日月の球体



ぼくの母が際限もなく太りだしこのあたりみな桜さきだす


夜天光ほのけきを母病みながら吾を呼びながらはたはたとせり


かの雲は死刑執行人の雲 一度だけ母の骨は鳴りにき


ワームホール妣へつながる花吹雪うつくしければ吾は行かぬなり


とほうもなきしじまを残し母はゆけり一時間ほどのみ空のけむり


母を一疋二疋とかぞえやるせなしこの山毛欅の蝉かの楢の蝉


ほの光る空気中浮遊細菌は母かもよああ数かぎりなし


妣の声を聞いてしまえり花曇りむしょうに泥を掘りたくなりぬ


死後の母も母なれば苦しかるらんやくらくらと木に人の耳でる


髪の毛座南中に浮き若かりし母ありてわれに乳の香ありき


宇宙ジエットはげしく母をおもわせて夜空にわれは産声ききき 


日月の球体通り過ぎてゆきぺっちゃんこなり母の死顔


ああ母のなきこと噛みしむるようにおうごんを見き枯野おうごん

                        
                        渡辺 松男




 現代の〈死にたまふ母〉は、羞恥心からか、より深い心理的屈折からか、
重層的な魅力ある作品を生み出した。
                        
 母をこんなにも歌って読者に反撥を感じさせない。感傷は遠ざけられている。
 
 そして宇宙母神のような〈妣〉。重なる宇宙と子宮。短歌形式による、
アイロニカルなロマンの誕生。




 聖なるものを冒とくするような危険な官能性をも含めて、次々と読者の心を揺すぶる。

 小説ならば、芥川龍之介の「地獄変」における良秀や、「細川ガラシャ夫人」
の描き方で対象を徹底的に戯画化し、貶めて物語らせることで、
より一層主人公の魅力と特徴が浮かびあがる、より輝かせるという方法があった
ことを思い出すが、短歌において試みられたのは初めてではなかっただろうか。
孤独も虚無も関係性をもち、かなしい絆に結ばれている。

 宇宙空間へ呼びかけるような壮大さと〈母の死のおおいにつまらなくも見え樹の根元青
き虫ひとつ這う〉に見るように、カミュの「異邦人」を連想させるようなクールな質感。
短歌の可能性がまたひとつ拡がった。

 平井 弘や、寺山修司の文学的虚構は、現代短歌にとって貴重な遺産だが、渡辺松男の
「日月の球体」も、短歌史に新しい一章を書き加えるものかもしれない。

 
 寺山修司の〈亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり〉を超える時空
の広さを感じさせることにおいても。
古代的でもあり、超現実的でもある自らの作品世界に読者を誘うことの上手な作者は、
痛ましく脅かされながらも、逃げ切ることもかなわぬ大いなる愛の中にいる。
そして、隠れ蓑を纏った作者は、羞恥心に邪魔されることなく、思う存分、母の呪縛か                
ら解放されるかもしれない歓喜と、永遠の孤児になるような不安と、動物的次元の母恋いまでを歌うのだ。
何かが狂い、別れが来る。歳月に轢かれるように、母は死に、消去されゆく記憶となる
〈私〉という存在の根拠そのものと共に。
サディスティックにも見える表現のため、母への、無意識の懲罰や憎しみを指摘するこ
ともできるだろう。異常だ、病的だと、その感受性を捉えることもできるだろう。
しかしそれにもまして〈愛〉を感じてしまうのは、私だけだろうか。




        木の耳を


 渡辺松男の歌は素朴でありながら、シュールで、ダイナミックだ。
その生命力溢れる歌 はどこから生まれて来るのだろう







   月華燦々孤独はついに木の耳をひっぱったりしてたわむれにけり


 森をすみかにする生きものたちの声に耳を傾け、遊び、合体する、
宇宙に在るあらゆるものに容易に変身する。
自然からエネルギーをもらっているのだ。


   憂鬱なるわれは欅の巨人となり来るクルマ来るクルマひっくりかえす


 狂王のような、無邪気なまでの陽気さ。名状し難い狂おしさを秘めた、
爆発的な暴力性が転化されている。



   信長の鉄兜などおもいつつ無言電話に無言で応う


 電話、不思議な存在。
不在の他者と繋がっている。

 身体性を消去した、それでいて〈声〉というまぎれもなく身体から発せられた闇の向こ
うの誰か。〈どこかの誰か〉と〈私〉は透明な匿名性を保ちながら対話することもできる
のだ。


   間違電話と知れど応答してゐたり梅雨の夜此の世と繋がらむため

                        光栄 尭夫


   無言電話に我も無言で応えおりさびしきものは繋がれている

                        吉村 実紀恵
                  
   ごみ箱をあさる男が新聞の一面記事に暫く見入る


   ひからびてゆく吐瀉物もニンゲンも見て見ぬふりをして生きるしか


   座席より転げ落ちてもまだ眠る男の躯みな避けてゆく


   晩鐘がきこえるようだ幾重にも襤褸をまといて路地をゆく人
                      

 吉村実紀恵の視線は社会へ(社会的弱者へ)向かっている。

 わかっていてもどうにもならない社会、どうしようもない社会。しかし本当にそうなの
だろうか。ただ避けて、逃げて、逃げ切ろうとしているだけなのではないだろうか。

 新聞の三面ではなく、一面を見入っているホームレスの男性。
   




 片仮名で書かれたニンゲン。社会に、あるいは世界に、他人の人生に、
何が起ころうと見て見ぬふりをして自己保身以外考えない、かまっていられない、
そんな酷薄な日常しか持てないわたしたちの後寒さ。
ただそれは、冷たさからだけではなく、いつのまにかホームレス予備軍になっている
私たち自身の鏡を見るような怖さもあるかもしれない。




       喪失




   いまきみの脳は機能を失ってぬれたガーゼに包むみつばち


   あるヒトの脳死は待たれほしいまま刻まれてゆくつめたいトマト

                       加藤 治郎


 鮮やかな比喩の効果が思う存分発揮されている。〈レーズンのこぼれでたあとやわらか
なやわらかな食パンにおびただしき弾痕〉・・・・加藤治郎の歌の特徴はそのイメージの                
豊かさ、連想力にあるが、比喩が説明を省き、映像的喚起力あふれる鮮烈な一首となっている。
短歌という形式と、一人の作家の言葉が幸福な邂逅をしているのだ。



   花篭に盛られしはなびらはこぶごとひとの臓器をささげゆきたり

                        角宮 悦子


   ひとつづつとり出されゆく臓器かな果物のやうに穫られゆきたる

                        岡井 隆



 臓器がとり出されたあとは、穿たれた穴でしかないが、臓器自身はまた他者の中で生き
続ける。他者を生かすために。生と死の境界はどこにあるのか、
自己と他者の境界はどこにあるのか・・・・。

 そして、臓器移植にせよ戦争の恐怖にせよ、その問題点や仕組みを表示するとき、
言葉 で、一瞬にして、感じさせなければならない。
五官に訴えなければならない。






視点



 自分自身ではなく〈情報〉が語っているように見えたとしても、究極のところ、
世界を 識るのは、個人の視点でしかない。


   南米大陸の目がぢつとみてゐると訳なく思ふ漬物石を


   らんらんと大陽が歌ふまつ平ら正義は不正義を惨殺したり


   フライパンの中には蝉が鳴いてゐる青春は哀し夏ごとに来て
    (愛スルネストル、君タチニハオ母サンカ゛トテモ必要テ゛、刑務所カラ彼女ヲ救出スル手ダテハ
他ニナイカラテ゛ス(セルハ゜容疑者ノ手紙)

                               川野 里子

  ペルーの人質事件を書いているのだが、二十首からなる連作は、
ダブルイメージで構成され、日常と非日常、日本の平凡で平和な家庭と、
セルパ容疑者たちの、喉を裂かれ首を落とされた死体が転がることになる公邸が
繋がれ、交錯する。
確かな映像を受け取ることができたばかりでなく、確かな視点も受けとること
ができる連作だった。

  二つの時空に存在の錘を降ろしているのは、この人のそしてまた
時代の特徴なのかもしれない。故国もまた一つの異国のように。





   日本は明日の眠りに入りたるか鳥の子色の包むおやすみ

                        川野 里子


   かならず日本に死なずともよし絵葉書のランプに今宵わが火を入れぬ

                        小島 ゆかり


 日本は美しい国と意識され、かつその郷愁さそう日本にのみ生きることに拘らない、他
 国に生き死ぬ幸せもあるという、汎地球的感性が生まれていることに、希望のランプが
点るような気がする。

 小島ゆかりは良心的な作家なのだろう。しかし時にはそれがマイナスに作用することも
 あるようだ。余りにも良心的であるために。余りにも普通であるために。





        心のランプ




 小島ゆかりの歌集『獅子座流星群』の中に、「少年よ   ・・・・土師淳君へ」
という一章がある。



   少年よ、ああその頭(かうべ)めちゃくちゃに撫でて抱き締めてやりたしわれは



   この雲もこのあじさゐも重からん少年の父に少年の母に



 紫陽花の大きな毬が落とされた首を連想させる。

 この歌を単独ではじめて読んだ時、酒鬼薔薇少年と、その両親のことだと思った。

 だから、そうではないことを知った時には、意外な感じがした。

 そう思って読めばそれはそれでそう読めるのだが、最初に受けた印象も消えない。

 マスコミの報道の仕方はむごく、人々の関心の在り方もまたそうであったから、顔写真                            
 が連日映し出されるようなことに堪えられない作者は、この歌を捧げたのだろう。鎮魂歌として。
しかし私には不満が残る。もうひとりの少年が気になる。
その少年の魂のことが。

それは栗木京子の次の歌にたいしてもある。

      犯罪ハ社会ノ責任タ゛ト云フケレト゛…。
   試すには及ばず 人は壊れやすきものと少年に母が教へよ


 教える?   皮相なとらえ方と思わざるをえない。

 しかし次の歌には文学的魅力がある。

      酒鬼薔薇ノ中ノ鬼ハマカ゛マカ゛シイ。
   「魂」の中にのつそり立つ鬼は未明の草の露に足濡らす


 無意識の、詩人の天性が書かせる歌は素晴らしい。同じ「ニュータウンの枕詞」三十三 
 首の中の〈雨の夜の絵本に腰蓑つけし亀立ちておそろし常世にさそふ〉にも見られるように、
言葉では言えない怖ろしさが身に迫る。

 だがそれでもその「鬼」を自分自身の問題として捉えているとは思えない。

 認識に問題があるのだ。

 むしろ栗木京子の歌では、


   おびただしき美しきヒトラー・ユーゲント野を出で進学塾へと向かふ


   のような歌に優れた特色があらわれているように思う。戦慄的な秀作を書ける人なのだ

   朝夕に君のくぐれる中学の正門に降る水無月の雨


   消えそうに寂しい門のほか見えずバモイドオキの神が生まれて


   夕ひばり夕ひばり来よみづからに首を落としし三島由紀夫ぞ

                        佐伯 裕子




   この夕べ家を離りてはちす葉のゆらげる暗き池のへ辺に立つ



   夢ならむ、講堂の壁に止まりゐるゴキブリ金色にかがやきはじむ

                        花山 多佳子

   形あるもの何もかも壊しつつ少年の確かめてゐたこと


   濃い霧の向かうはどんな風景か精神思う精神の在り


   ラストシーンで島を発ちにし少年はそのこころざし遂げた かもしれぬ

                        香川 ヒサ           




 これらの歌には直接関連の有る無しにかかわらず地下水のように流れているものがある
 マイナーなものへの親密性とでも言おうか……

 温和しく進学塾へと向かう大多数の少年たちの側からではなく、人間性の喪失とは相反
 するような、親和的世界・・・隠れ家のような裏山へ、夕陽の見える公園へ、
静寂な池への小径を辿った一人の少年に、陰惨な殺人への誘惑が起きたこと、
倒錯的な血の愉悦をエスカレートさせてしまったこと、超人主義的傾向を行為として   
示現してしまったことなど思うと、しかもその少年が、どんな作家よりも〈言葉〉の力を
 衝撃的に知らしめたことを複雑な思いで受けとめないわけにはいかない。



 心の暗闇に差し入れられるランプ・・・・・〈絵葉書のランプに今宵わが火を入れぬ〉 
 その火を彼の心にも点けられたなら。「少年よ ・・・・土師淳君へ」の中に心惹かれる
 一首がある。



   死児の指まひまひとなり遊ぶ夕あかき杏の雲出でてをり


 その視線が同時にもう一人の少年にも向かっていたらと願ってはいけないだろうか。


   水だから火が欲しくなる モニターの銀河を指で散らせばまひる

                        成瀬 しのぶ      

                          
        透明な傘



   口きかぬ一日の終わりめいっぱい開き閉じたる透明な傘

                        大野 道夫

   ハンガーの肩のなだりに従ひて背広がつくる透明人間

                        真木 勉 

   ものうげな夏空にもう秋の雲 私は私で終わりたいのに


   病んでいると再び思う透明な泥にまみれる幻のあと

                        今井 美穂
                             




 無意識のうちにも仮面をかぶり演技をして、自分を誤魔化し生きている日々。眼に見え
ない隠れ蓑にもなる透明な傘。そんな日々を過ごすうちに自分をなくし生きるためにだけ
生きる空っぽで無色の透明人間になってしまう、そしてもう自分が自分でいられなくなる
という、微かだけれど確実な破滅の予感がある。


 自分が自分でないような、真実の自分でないようなそんな気持は誰にでもあるだろう。
 自分を大切に思えば思うほど。

 透明という言葉はいろいろな使われ方をする。純粋とも、抹殺された存在とも。

 透明という言葉が否定的に使われる場合も多いけれど、透明になれたら自由になれる。
 それは決して沫梢されるとか、隠れなければならないとかいうのではなく、
地に縛りつけられ、現実に束縛されることから自由になるということも意味すると、
私は思う。
純粋に実存的存在になることを。透明願望は日本の昔話にもあるように、

自然な願望なのではないだろうか。        
        



        月夜のポリバケツ



   柿落葉口いっぱいに押し込まれ僕は月夜のポリバケツである


   ほかされても割れたりしない少しずつ雨水溜まる壜になるだけ

                        飯沼 鮎子



   ベッドより立たんむと父がすがりたる自転車のチューブ黒く垂れたり


   時間をチコに返してやらうといふやうに父は死にたり時間返りぬ

                        米川 千嘉子


   労働といふにはあはき日々経つつ石だたみ道びっしりと欝

                        桑原 正紀

   吊り革に支えられたる我が身よりたましいはペンキのように滴り


   断ち切りし背びれ尾びれを叩き捨つ捨てんか最後となりたる夢も


   どの窓も鎖されて蔦に掩われつわが死の家のごとくに

                        光栄 尭夫


   日常のシステムに乗せ宅配は青酸という毒物はこぶ


   檸檬より酸っぱい雨にぬれながら我は緑の樹となりてたつ佇つ

                        田島 邦彦


 抑圧され怒りを充填する容器。

 あまりにも沢山の問題を抱え、生きてゆくことの難しさが本物になってくる。

 若い日の、風に吹かれるような生き方はもうできない。関わる場所、関わる人々、
関わる時間、職場で家庭で街角で、凝視めるのは、思いどうりにはならない人生。
溶けだし爆発しそうになっているこころ。勤めのため、介護のため、煩雑さのため
失われてゆく時間。
それでも人は夢が棄てきれない。断念はやすらぎをもたらすとは限らない。


 インターネットで青酸化合物が宅配されたりする。自殺の自由か安楽死が認められ、
それが事件などでなく、病死の一種と認められるなら、老醜を曝す心配もなくなるわけだから、
どんなにか安心なことだろう              

 だが死ぬのはそんなに簡単ではなく、最後の最後まで、人間らしく生きるため、人間ら
 しく死ぬための、一人一人の闘いがつづくのだ。

 世界の苦と、自身の悲を何かに昇華できるまで。



   聲殺すこの青葉闇 日本は滅びず 滅ぶことさへできず

                        塚本 邦雄


   歌ひつつ宙にとどまるわが雲雀苦しかるべし萬緑の野に

                        前 登志夫



        ひとたび死んで


  死ぬ前に生きなければならない。生きる歓びがあるはずだ。



   こんなにも山のさくらが美しい去年の春にひとたび死んで

         散歩ノ途中テ゛
   冬の日にひとのこころを温むる梅のやうにはなれないだろか

                        柳 宣宏
                        




   とてもしずかなあなたをつれて水底の藻にすむものになりたいのです


   海に魚眠りて遠い声をきく〈わたしの鈴を探してください〉

                        東 直子

                        
   深鉢の面ゆっくり泳ぎ去るちからある魚 いにし世の魚


   海を見しことなき鄙の陶工が夢に描きし水の青釉

                        坂出 裕子


 コンピューター・グラフィックの画面から飛び出してくるように、まるで生きているよ
 うにゆっくりと泳ぐ魚。海を見たことのない陶工が夢見た夢そのものが、今、作者の眼の中にある。
時を超えて蘇る命。人の夢は永遠の生命を育んでいるのだ。



   菜の花の黄色がにじむ雨の朝どこまでとほくヒトはゆくのか

                        真木 勉

 日常の中に美がある。そして幸福も。

 日常の美しさに目覚めなければならない。おそらくほかに方法はない。

 だがまたどんなに美しい日常の中に日を過ごしたとしても、平穏さは
偶然の危うい均衡の上に成り立っているに過ぎず、世界の苦が消えたわけでもない。
その上に近未来の人類の破滅を招く
ようなとどまることのない科学の発達、環境の変化など、
私たちはどこから来てどこへ行くのか……



        廃墟




   始まりも終はりも風が吹きはらひ廃墟に石の影の濃ゆしも

                        香川 ヒサ

 廃墟に影が射す。光が何処かから来ている。

 しずかに時間がながれている。

 光は永遠から来ている。

もしかしたら夢かもしれない。
私たちの人生も、
私たちの見ている宇宙も。



                                    了


                               (1999年、夏)






 

祥  * 『廃墟の光』 * 18:10 * comments(0) * trackbacks(0)
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