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『グレート・ギャツビー』

日生劇場の『グレート・ギャツビー』が終った。
小池修一郎作品が、
お隣どうしの劇場で同時上演されていたわけで、
それに、現在、名古屋、博多と周っていて、
11月、帝劇に凱旋公演する東宝の『エリザベート』を加えたら、
小池作品三作同時上演ということになるのだろうか。

来月もまた、観る方も忙しい。
12月までは忙しいかな。
1月も忙しいかも。
月組の源氏『『夢の浮橋』(大野拓史)が来るし。
レニングラード国立バレエも来る。
「ジゼル」 はオーチャードホールかな。



『グレート・ギャツビー』
映画、「華麗なるギャツビー」は、ロバート・レッドフォードと、
ミア・ファローだった。
(その後のリメイク版(NHKハイビジョンで放送)では、
ミラ・ソルヴィーノがデイジーを演じている。)
白のイメージだ。
原作者S・フイッツジェラルドの妻、
華奢でエキセントリックなゼルダを思わせるデイジー。
狂気が見え隠れする、そして終に狂ってしまうゼルダを、
外見上だけでも、幸福に保っておく表現形式をとどめるデイジー。

宝塚の「華麗なるギャツビー」は、杜けあき、鮎ゆうきで、
十数年前に雪組で初演された。
小池修一郎演出で、どこかのバージョンでは、宮本亜門の振付だった。
杜けあきの非の打ち所のないような歌と演技が恐ろしいほど、
(次にどんな人が演じても初演時のメロディラインや残像が記憶から
離れないのではないかという意味で。)
目と耳に残った。

鮎ゆうき演じるデイジーの、
「この子が生まれたとき 私思ったの。綺麗なお馬鹿さんに育てようって。
女の子は綺麗で、自分が幸福だっていつまでも信じていられるくらい
馬鹿なのが一番なのよ」
という台詞も忘れられない。

フィッツジェラルドの作品には、変奏曲のようにくりかえされる、
(デイジーの母の台詞ではないが。)
「金持ちの娘は決して貧乏な男と結婚してはいけないの。決して幸福にはなれないのよ。」
という台詞とともに、
屈折した苦い思いに気づかなければ、おそろしく時代がかった打算的な考え方と
誤解されかねないけれど、
実際、美しく裕福な家に生まれた、苦労知らずのデイジーに、
もしも、健全な精神を持って(貧しい)新しい環境で生きろと言っても、
生まれつき神さまが逞しい生命力を授けた、『風と共に去りぬ』の
スカーレット・オハラのような場合はともかく、
ほぼ、100%環境に順応できないだろうなぁ、と思える。

(それに、スカーレット・オハラの場合は、奴隷を沢山使う南部の大農園と言っても、
父、ジェラルド・オハラを通して、二代も遡ればアイルランドの農民だったという
設定であったから、まだまだ大地に根を張った逞しい遺伝子も、
新天地に賭ける開拓型の遺伝子も元気に介在していたというわけだし、
デイジーの場合は、『風共』的に強いて分ければ、
むしろ十二本樫の家(樫の木屋敷)ウイルクス家のアシュレのような感性に属している。
その上、肥沃なタラの大地の息吹と綿花を育てる太陽を浴びるアシュレの環境よりも、
さらに心身ともに虚弱な体質を育てただろう設定でもある。

もしも「綺麗でないお馬鹿さん」であった場合は、
アトランタ暮らしの、メラニー・ハミルトンの叔母、
ピティパット叔母さんである。

かといって、富裕であるだけがとりえで、
スポーツでは全米に名を馳せていても、体育○○のような
トム・ブキャナンとの結婚が幸福であるわけもない。
語り手のニックのように、もともと出身階級が同じ階級に属し、
デイジーの繊細な心理もよくわかり、そこそこ暮らしには困らない程度で、
デイジーが好きになれる相手がいればよかったのだろうか。

どちらにしても、デイジーが恋したのは、ジェイ・ギャツビーで、
そのジェイ・ギャツビーは、
ただただデイジーに逢いたいためにだけ、
誰でも招待状なしで来られるパーティを夜毎催し、
デイジーの住む家の灯りが見たいためだけに、入り江の対岸に、
広壮な邸宅を構えていた。

再会の時のため、デイジーにふさわしい男になろうと、
禁酒法時代の闇世界で財を成していたのだけれど、
考えてみれば、このギャツビー、
今から見れは、ストーカーだし、経歴詐称で見栄っぱりの嘘つきだし、
その上、実際に轢いたのはデイジーとはいえ轢き逃げ犯だし、最後は、殺される。
ひどい設定なのだけれど、
舞台の中では、瀬奈ギャツビーは、長身で、洗練されていて、
背中の演技が素晴らしいと言われた初演の杜けあきとは、
また違った別の魅力がある。

上手さで言えば比較にならないが、現代性があった。
さらに言えば、欠けるもののない初演に欠けていたものは、
この現代性と優雅さだったかな、と、再演されてみて気づくことがある。
初演の杜さんが、余裕ある美声で歌い上げたナンバーは完璧で、
歌として非の打ち所のないようなものだったけれど、
瀬奈さんのギャツビーは、全てに性急なほどの一途さ、
その、ある意味余裕のなさが、ギャツビーを哀切にみせる。
痛恨の思いが滲む。
永遠にも思える距離を埋めようともがき、
変るもののないデイジーを思うギャツビーが、やはりそこにいた。
風間祥  * 『映画・演劇(宝塚)・TV・コンサート』 * 00:00 * comments(0) * trackbacks(0)

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