<< 穂村弘 「楽しい一日」30首 | main | この世には勝者と敗者がいるだけとドナが歌っているよ小島で >>

「チャイムが違うような気がして」50首/穂村弘 

今頃になって、この作品について書くのもなんですが、
鉛筆2青磁社の「週刊時評」[一首に即した批評を] で、
広坂早苗さんが書いていらっしゃることについて、
幾つか前のスレッドで、感想を書いたので、
長くなって読みにくいと思いますが、それに関連して、書きます。


「短歌研究賞」受賞第一回作品として書かれたこの作品、
50首もある。
その50首が、有機的に機能しているか。
しているようには思えない。
どの歌が必要で、どの歌が不必要で、
互いにどう影響しあい、どういう世界を構成しているのか。
牧歌的(に見えるよう)な歌、危険を孕んだ歌、入り混じって、
一見脈絡もなく置かれているようでも、
あるべくして在り、置かれるべくして置かれた歌なのか。
それともただ記憶の断片をつなぐように羅列されているだけなのか。
意味ありげな歌と、無造作に並べられただけのような歌と、
一つの物語を構成しようとする気はあるのか、ないのか。

事件はあったのか、なかったのか。
少し危ない意識の流れを追っただけなのか。
よくわからない。
感想にもならないかもしれないけれど、少しずつ読んでいってみよう。


・解けてゆく飛行機雲よ新しい学級名簿に散らばった(呼)

呼び出し電話というものが、昔あった。
でも、かなり昔へ遡っても特殊事情が無い限り、
散らばるほどはないはず。
別の意味があるのだろうか。
SOS的に援けを呼ばれているような気がするのだろうか。
「解けてゆく飛行機雲」というのは、
夢の象徴だろう。夢が溶けてゆく、助けて。
ということだろうか。
あちらこちらから聞こえる<私>を呼ぶ声とでも訳そうか。
それとも、普通に郷愁的な気分で読めばいいのか。

・夕方になっても家に帰らない子供が冷蔵庫のなかにいた

としたら、事件だ。
死んでいたら。
誰かが閉じ込めたり、殺して隠していたら。
生きていて、自らカクレンボをしていたというなら話は別だ。

・書き順のドリルを埋める お米研ぐ音が響いている夏の夜

静かに何事もないようにふけてゆく夏の夜、
事件のことを忘れたふりをしてただドリルを埋めているのか。
それとも母がお米を研ぐ音が聴こえる静かな夜を、
淡々と過ぎていった日常を郷愁的に思い出しているだけなのか。

・「大切なお知らせ」の白い封筒が夜のピアノの足下にある

「大切なお知らせ」には、何が書かれているのだろう。
その事件のことか。

・しーしーと蝉たちの声降りそそぐ踊り場に君のげろはなかった

げろを吐かせるようなことをした主人公なのか。
例えば、薬缶に毒物を入れておいたとか。
その薬缶と、21首目に出て来る薬缶は同じ薬缶なのか。それとも違うのか。
(・陽炎の運動場をゆらゆらと薬缶に近づいてゆく誰か) 

・夕方のこんなに暗い教室に確かにあのひともいる

と書くのは、「あのひと」がすでに存在しないからだろうか。
「あのひと」は、女性教諭だろうか。

・ひらひらの枕カバーを誰一人疑問に思わなかった夜よ

疑問に思って当然なのに、誰一人疑問に思わなかっというわけでだけれど、
何だろう、ひらひらの枕カバーって。
性倒錯的フェティシズムに関わりがあるのだろうか。
誰かから無理矢理奪ったものなのだろうか。
それとも、ひらひらの枕カバーは複数存在して、それに誰も疑問を感じなかったのか。
修学旅行か何かのとき。としたら、何か他にもそれらしい歌がないと唐突すぎるし。

・下駄箱の靴を掴めば陽炎のなかに燃えたつ審判台は

この作から三首は、宅間守の附属池田小児童殺傷事件を連想させる。
この50首の中で、最初読んだ時から興味を持てたのは、この部分だけだった。

・白墨を握って外へ なんとなくチャイムが違うような気がして

前のスレッドで書いたように、
この歌を読むと、校庭に、宅間守でも入って来たような気がする。
何か異変が、緊急事態が発生したのではないかという。

この歌に続く歌、

・陽炎の運動場をゆらゆらと薬缶に近づいてゆく誰か 

も、ほぼ同じ感触を受ける。
殺人犯が日常的な平和の象徴のような日盛りの運動場に侵入する。
そんなシーンをを想像する。ゆらゆら揺れて倒れる。
実際には、ただ、薬缶に近づく顧問の先生かも、部員かもしれないが。
(昔観た映画で、渡哲也が、傷を受けフラフラになって校庭に入り、
そこで倒れて息絶える。なんて映画があったことも個人的には思い出すが、
この場合は関係ないだろう。)

しかし、次に出て来る作品には、直接にはつながらない。

・夕闇の部屋に電気を点すとき痛みのようなさみしさがある。

これだけでは、「さみしさ」だけでは、もしも事件が起こっていたとしたら甘い。

・童貞と処女しかいない教室で磔にされてゆくアマガエル

普通に読めば、生物の実験でしかなさそう。
「童貞と処女」と言っているのは、現在の視点から書かれている。

・水枕の茶色は誰が決めたのか急須の茶色は誰が決めたのか

茶色の水枕とは、幼時、病気のときに看病された思い出の中のアイテムだろうか。
急須は万古の急須と決まっているわけでもないだろうが、水枕も万古の急須も、
確かに茶色だ。

・魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏

細かいこだわり。その唇や舌に触れる触感。口中の違和感。
昭和の貧しさが残る触感と共に吐き捨てるもの。

・乗り込んだ西日のなかでふらふらと揺れながら小銭入れをまさぐる

またしても思い出す映画。
当の主人公になっているような書き手。

・正の字が散らばってゆく黒板にときめきながら爪を噛む朝

これは、何か、学級委員の選挙か何かの時の開票時のような。

・八月のちんちん電車のなかでみたお相撲さんが目薬を点す

ここからまたノスタルジックな世界点描

・手を当ててえーんえーんと棒読みの昔の子供たちの泣き真似

・母が落とした麦茶のなかの角砂糖溶けざるままに幾度目の夏

ここで、時間が経過してしまっている。

・絨毯に寝転んだまま夜になる蛍光灯がちかちかしてる

冒頭の歌、
・蛍光灯のひかりの下でみる夜の御飯はもうじきなのに

と、少し似ている。

さて、とても50首は写せない。
飛ばそう。

・熱帯夜ATMの液晶の女子行員が金髪である

こちらの方も、時間が交差しているような気がする。
(ATMが導入されたのはいつ頃だったろう。)

・ペンダント背中に回ったままずっと走り続けて燃え上がる朝

飛翔した。まるで天使になった瞬間のように。
詩的飛躍を認めればいいのか。

・括られし一本の一束道端に膨らんでいる烏をのせて

幻想的な歌の次には、
いきなり、リアルな写実歌が登場。
古紙回収日によく見る風景。
雨に濡れて紙が膨張したのか。
もちろん膨らんでいる烏ではなく、
膨らんでいる古紙の束の上に烏がとまっている。

と同時に、
リアルであると共に、烏が止まっている風景というのは、
小津安二郎の映画のラストシーンでも観たし、
なんだか不吉な前兆として弔いを象徴するようでもある。
暗示映像的な歌でもある。

・踊り場におんなのげろが落ちてると噂流れてくる登校日

ここでまた何行か戻った、最初書かれていた物語の時間帯へ。
夏休みか何かの登校日。
例えば亡くなった女性教諭か誰かの、
げろが踊り場に落ちているという噂が流れているという、
迷宮入りと思えた事件が表に現われたりでもしたのだろうか。
あるいは毒物を薬缶に混入したことが、発覚したのか。

・商店街大売出しの福引はからんからんと蟹缶当たる

そしてまた関係なさそうな一首。

・昭和四十二年八月この場所にソフトクリームの頭が落ちた

手に持って日盛りを歩いていて食べないうちに溶けて落としてしまったのかな。
頭がポロっと落ちる感覚って、結構繰り返して歌われている。
「たのしい一日」の天使の頭のように、ソフトクリームの頭も扱われている。
何でもないことに、仰々しく日付が刻印されているのは、
記憶すべき大事な日だったということかしら。
夏に、幼少年期に別れを告げているのかしら。
何かがあって?
何にも無くて?

                 ★


結局。思ったとおり、私にはこの作品は、読めませんでした。
もう少し、普通に順序を追って書いていただいたほうが、
そして、中心になる主題を追って、
全体を一つのドラマにして構成していただいた方が、
緊迫感も生まれ、興味も湧いたと思います。

戦慄すべき内容があるならあるで、
明確な表現を取っていただきたかった。
牧歌的、ノスタルジックな作品があるかと思えば、
幾つかの歌は、神経症的なほど、皮ふ感覚に、
現実との違和や、戦慄すべきドラマを内包しているようでもあり、
恐ろしく不穏な告発に満ちているようでもあり、
予感に震えるようでもあり、
しかしまた、何を思ってか、その流れは中断され、
別の風景が写し出され、それが、かえって、
結果的に怖さを増幅するとか、身辺に迫る実感を伴うのならいいのですが、
ただ、思わせぶりなだけで、中途半端に思っているような気がしました。

作家として覚悟が足りないというか、短歌形式の連作性を生かしていないというか、
それも、意図してアトランダムにつくられ、意図して事件そのもののように、
現実そのもののように、日常の中に、何の予告もなく侵入してくる偶発性を、
文体としても構成としても造型されているのならいいのですが、
そのようにも見えません。

あえて、主題を明確にせず、隠し、暗示象徴する手法を取るなら取るでいいけれど、
そして、運命に導かれるように歌が導かれ引き出されて来るのならいいけれど、
そのようには見えませんでした。
謎めいたところは魅力ですが、
幾つかの事件や、ミステリアスな出来事や、白昼夢を組み合わせたような、
オムニバス的な散漫な印象がありました。
作者自身の中で、まだ成熟しきっていないナマモノを提供する魅力とともに、
他者に伝えるために小説的構想をもって造型されたら、
読者としては読みやすくなります。

無理に連作として読まなくても、
群作として読めばいいという意見もあるだろうけれど、
50首を一つの作品として発表する以上、
作意があるのか無いのかわからないような形ではなく、
自然に断片的にというならそれはそれで思わせぶりな演出や挿入はせず、
明確な意図があるなら、ぼやかすような煙幕は掃ってすっきりさせ、
一首でも読めるという、バラバラの50首でも50首は50首だという、
或いは幾つかの塊を足して50首にするという短歌形式の特徴に甘えず頼らず、
もっと深く、それ自身が生物のように生動するまで育てて、
連作として読める50首にして発表して頂きたかったと思います。
風間祥  * 『短歌について』 * 11:46 * comments(0) * trackbacks(0)

コメント

コメントする









トラックバック

このページの先頭へ