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『ラ・ラ・ランド』と『話す犬を、放す』を観て来た。

ミュージカル映画と、ちょっとシリアスな映画。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ラ・ラ・ランド』は、

『セッション』以来2年を経過、

デイミアン・チャゼル監督の作ったミュージカル映画。

ということで、アカデミー賞も何部門も受賞し、

どんな映画だろうと思って出かけたが、

面白いところと、退屈で眠くなるところ半々。

 

ミュージカルだから、もちろん歌もダンスもあるのだけれど、

お芝居の延長的で、ミュージカル的高揚感はないし、

歌もダンスも突き抜けるほどではない。

まぁ、楽しく歌っているし踊っているという。

わざとそうしている感もある。

歌唱力やダンスの魅力そのものより何か別のものを伝えたいようだ。

 

ファンタジックな魅力もそこそこに取り入れながら、

不器用にぶつかりながら生き、この世にさざ波を立て、

夢見ることと、大人になることの狭間で揺れながら、

厄介な反抗者であり敗れても悔いず、

挑戦し続ける者たちへの呼びかけを、歌の中では歌うのだが、

実際は、どこで妥協したのか、大人になることの痛みを引き受けると共に、

単なる成功者になっているような。

それでも、どこかに、残っているのかな。夢見続ける心。抵抗する心。

それはとりもなおさずチャゼル監督の心。

 

最後は『シェルブールの雨傘』をなぞったような終わり方なんだけど、

もう一つの在り得たかもしれない人生を、

映像でもしっかり見せて、でもそれだけだから、

同じって言えば同じの上に、

シェルブール的余韻もないのは、

あれはあれでいいのかな。

 

 

ジャック・ドウミ監督の『シェルブールの雨傘』だけじゃなく、

『カサブランカ』が好きな女優志望のミアの部屋には、

大きな、イングリット・バーグマンのポスターが、

ミアの憧れを象徴する大きさで存在したり、

『理由なき反抗』の、グリフィス天文台でデートしたり、

チャゼル監督の、映画黄金期へのオマージュが

無限大と言いたい程に感じられて、

『ニューヨーク・ニューヨーク』や『巴里のアメリカ人』や、

『雨に唄えば』が2重写しになるような。

 

セブ(セバスチャン)にはジャズを熱く語らせ、ピアノも、

主役のライアン・ゴズリングに、自分で弾かせる。

ミアは、セーヌ河に飛び込んだ女優だった叔母の話をするが、

ミアが女優を志した理由は、歌詞にもあるように

「叔母と雪とセーヌ川」なのだが、

それは必然的に、ジャンヌ・モローの『突然炎のごとく』を想起させる。

オマージュはオマージュで、

今は今で、その今もまた、刻々と過去へと過ぎ去る。

 

叶えたい夢を実現したミア。

かつて撮影所のコーヒ−ショップで働きながら、

オーディションを受け続け、女優を目指していた頃、

そして、セバスチャンのいた頃と、

大女優になり、可愛い子供も出来、

どこかの誰かのお金持ちの妻になっている今と、

ミアはどちらが幸福なんだろう。

(映画設定上しょうがないのに、なんであんな

つまらない男と結婚するんだ。と突っ込んでいたり^^)

 

『シェルブールの雨傘』の、雪降るガソリンスタンドでの

束の間の再会だけですれ違っていく人生と、『ラ・ラ・ランド』の、

やはり成功したオーナーとなっているセブとミアの束の間の再会、

劇的なことは何もなく、ただ心の中だけで合体し別れる。

7分間の、もう一つの、ありえたかもしれないセブとミアの人生。

 

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祥  * 『映画・演劇(宝塚)・TV・コンサート』 * 18:09 * comments(0) * trackbacks(0)

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