銀河最終便
WEB日記

『長女たち』篠田節子                 

 

恐ろしく重苦しい、

凄まじい小説だ。

小説家というものの、

想像力の凄さにも感心する。

少々読んだことを後悔する。

 

三つの短編に分かれていて、

最後の三番目に置かれた短編だけが

何とか斜め読み飛ばし読みではなく読めた。

 

人間の闇の部分に触れて、

触れてはいけない部分にも触れて、

悪魔も恐れるほどの人間の心の襞に分け入って行くのが

小説家の使命だろうが、人間とは、

凄まじく強い生命力を持って、

自他をその戦いの中において引かないもの、

死にかけている病人でも強いもの。

死にかけている病人だからこそ、

何よりも強いもの、

たとえ100歳の老婆でも、

その弱者性に於いて、

強者たることが出来、

他者よりも自分を貴ぶものと。

 

羅生門かどこかで、痩せ衰えた老婆に、

衣はおろか、髪の毛までも奪われる屈強な下人になった気がする。

 

 

『長女たち』を読むと、

ある意味、世界観が一変する。

そのように書かれている。

そして、作者の書くように、

まさにそのまま、世界はそのようなもの。

人間とはそのようなものと追認する。

 

作者が読者を洗脳するのではない。

普段は常識的な見方で隠されている

物事の本質が顔を出すのだ。

 

例えば、「弱者」

「老い」や「病気」

すべて、強者となる。

そのマイナスを掛ければ、

もの凄い力となって逆襲するように。

 

老いた寝たきりの病人は、

若い健常者を奴隷の位置におとしめると同じ力を発揮する

強者となる。

 

その人を見捨てることの出来ないという点で、

他者に対して、結果的に強弱転換するパワーを持つ。

 

それが家庭内で起これば家庭内の、

家庭内から漏れ出して、

社会で面倒を見ることになれば社会で。

 

数々の殺人事件は、

ギリギリの鬩ぎあいの中に生まれる生命と生命の闘争。

その病人を放置すれば、

液晶の滲みが広がり、機器全体を壊すように、

埋めても沈めてもはみ出し、

浮かんで来る生体かのように、

周囲は捨てておくことが出来ない仕組みになっている。

 

その点で、完全なる強者とは、

完全なる弱者という構図。

しかも、それを、表面上は愛と優しさに変換する。

双方の無意識の乗り入れ。

唯一の受容方式。

 

老人も病者(この小説では、

治る見込みのない父であり母)も、

結果的に、その状態が酷くなれば酷くなるほど、

強者となる。

 

弱者になればなるほど、

強者になるというパラドックスが完成する。

 

そして、彼らが死を迎えるまで、

その関係が変わることはない。

病者は、弱者性を増すほど、

健常者を従えてゆく。

最後に見送るまで、

逆転したことの自覚なき奉仕者。

 

一人を食んで食み尽くせば、

次へ流れていくマトリックスでもある。

一人でとどまるとき、

その対象は、作者によれば、

ゆえ知らず、そのような立ち場になることが多いのは、

運命づけられたとでもいうように、

それは大抵、「しっかり者の長女たち」と。

 

例えば、第一編や第三篇の登場人物、

(第二篇は、一人しかいなくて、

その一人が海外の僻地医療に女医として赴任するので、

父親は、主人公が帰ってみれば石化している。)

二人いて、一人は合法的に見捨てることを厭わない。

また親も覚悟している。

 

親の胎内にある時から、

親は、一人を自己のコピーのように同一視し、

一人を他者と認識し、自己と一体と認識している方を、

自己保存のために使う。糖尿病が悪化して糖尿病性腎症となり、

最後の手段として腎移植を選ぶかどうか、適合するかどうかとなった時、

母親は、事も無げに言う。

母親「自分の体と同じだもの」

慧子「自分の体と同じ?」

母親「自分の一部のようなものだもの」

献身的な介護を続けているうちに、

『無意識のうちに、母の暗黒の胎内に戻ろうとしていた』

『限界はとうに越えていた。

自分でそのことに気づかなかっただけで。

殺すか、逃げるか。循環する血液も思考回路も共有する不気味な結合体』

 

『一刻の猶予もない。この手で母を殺してしまう前に離れて行かなければならない』

とは、書かれているものの、この主人公は、結局、離れて行けないかもしれないと、

感じさせられる。

 

死が分かつまで、切れないかもしれないと思わせられる。

終章の後も、永遠に車椅子を押し続けるのではないか。

施設に預けても、或いは死後でさえ、幻の車椅子を押し続けるのではないか。

 

どのように思おうとも、突き放せない。

突き放すごとに、えぐりとられる心の肉塊。

羅生門の下人の髪を掴んで放さず、逃げようとすればするほど

しがみつく老婆のように。

車椅子のグリップを、主人公が放せない原因は、

何よりも、母親が、今にも死にそうな「弱者」であるから。

そして逡巡なく娘に愛を求めることの出来る生物上の強者であるから。

 

愛という名であれ、我が半身という認識であれ、

自己保存の本能は、正しく行使され、

もう一人の子どもである「他者」には気を使い、

「だめよ、移植のことなんかあの子に言ったら絶対だめ。

病気でもない体にメスを入れさせて、万一のことがあったら。

誰がそんなことをさせたいものですか、将来どんな病気になるかしれないのに」

と、

「半ば予想した答え」が返って来る。

 

『一心同体。二人の子供のうち、方や愛する者、方やまぎれもない自分の一部。』

もう一人の他者性を有する子どもは、可愛がる存在で、傷つけてもならない存在で、

甘えていい存在ではないのだ。

 

自己の半身には、遠慮しない。

同じ子供でも、他者性を認める者には気を遣う。

人間は、そのように種の保存をして生命をつないで来た。

 

一人しかいなければどうであろうか。

自己自身に等しいと認識するのだろうか。

他者なのだろうか。

全くの血縁関係のない他者ではどうだろうか。

人間は、自己を保つためには、

何人をも食む属性を持っているらしい。

 

そのようにしか、生命は連鎖できないのかどうかは知らず、

ただ、幼い子供だけが例外であるらしい。

動物も、種が違っても、乳を与え保護する。

大人同士になった種には、そのようなことはなくなり、

自己の遺伝子を繋ぐ種の本能に立ち返ると言われる。

 

木は立ち枯れる。

落ち葉を落とし腐葉土とする。

生命は実の形で森に残る。

自らが枯れて、光を森に入れる。

 

: 『読書/単行本・新書』 : comments(0) : trackbacks(0) : posted by 風間祥  :
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