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このように切り株となり骸となり転がっている調布駅前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんという野蛮な所業。

 

中野の平和の森公園の17000本も、

こんな姿になるのだろうか。

もうなってしまったのだろうか。

 

弥生式住居遺跡も

一緒に破壊してしまうのだろうか。

そんなことが、いったい許されるのだろうか。

文化財保護法や遺跡保存条例などは適用されないのだろうか。

闇雲に箱物を作って、

造った後も、

毎年、維持管理費をかけて、

コンクリートの劣化と共に、

使われない無駄な箱物となる。

そしてまた壊して、また建て直す。

立派な体育館を、ゼネコンに発註して作ったところで、

いったい誰が使うのだろう。

 

池や流れはなかったのだろうか。

自然のビオトープも壊されて、

メダカや蛙の生息する場所もなくなってしまうのだろうか。

フクロウは来ないかもしれないが、

春には鶯も来ていたのではないだろうか。

私の家の近くの公園には毎年来るから、

この公園にも来ていたかもしれない。

 

狂気の沙汰を狂気の沙汰とも思わず、

17000本もの樹林を平然と切り捨てる神経。

破壊、破壊、破壊。

愚かなことだ。

傲慢なことだ。

 

一方で、3.11の津波の後、

生き残った一本の松の木が、

枯れそうだと言って、

人工の詰め物をしたり補填をして持たせようとしていたのは、

あれは何だったのだろう。

生きている樹を、生首を掻き切るように伐り捨てる

このような所業と、

随分な乖離を感じる。

 

あの木が大切な木だったのなら、

この武蔵野の樹々も大切な樹々ではないのだろうか。

風間祥  * 『時事』 * 16:52 * comments(0) * trackbacks(0)

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