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まとめて再掲。金井美恵子さんの短歌批判と歌壇の反応に関して書いた「銀河最終便」内過去記事

ご参照ください。

内野光子さんのブログ

〇自浄能力を失った歌壇か―「腰が引ける」とは(2018年3月9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/

 

以前、書いた文章ですが、

早稲田文学春号デビュー50周年特集号『金井美恵子なんか怖くない』

(2018.3 発行)を読んだので、

金井美恵子さんの当時の短歌界への指摘を読んだ時の、

当時の感想など、まとめて再掲しておきます。

金井美恵子 早稲田文学3月号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今さらもう何を言っても詮ないとすべてを諦めてゆくよ折節

大きな社会も小さな社会も社会はみんな同じで
短歌界なんてところも同じ仕組みで。

金井美恵子さんの指摘も、この世界には届かない。
そよりとも風も吹かない。
一木一草動かず、すべて世はことも無し。
本尊は安泰で、門弟三千人の世界は微動ともしない。
そのことを憂う人はいない。

何があっても権威は安泰、何があっても大樹の陰と 今日の日暮れはことに悲しく

金井美恵子さんが指摘した問題も、
この何とも言えない空気も、
権威の壁の厚さ、
誰も抵抗しない、
抵抗できない壁の厚さ。
なぜなら、全体が壁だから。

穂村弘さんの明晰さに救いを感じる 『短歌研究』座談会での、金井さんの指摘に対する発言

「短歌研究」2013年『短歌年鑑』の座談会
(佐佐木幸綱、島田修三、栗木京子、小島ゆかり、穂村弘)で、
金井美恵子さんの文章に触れている部分を読んだ。

穂村さんの、本質を衝 いた発言がある。
他の歌人は、 問題の周辺をうろついている。
中には、全く解っていない発言者もいる。
発言の無い歌人もいる。

栗木 「結局、第二芸術論のときの発言と変わらない。
島田 「もうちょっとひどいんだ。金井さんが言っているのは。
もう一つ、歌人の書く散文や批評の質が低いと言っている。
その質の低さというのが、また感心しないものを引用しているんだけれども、
要するに閉じた言語空間の中でお互いにヨイショしあっているんだろうと、
こういう批判をするわけです。
お互いだけが理解し合える世界の言葉でしか語っていないんじゃないの

というのが金井さんの論理。

いいものを見ていないんだ、あの人、全然。」
・・・中略・・・
穂村 「でも、他に本当にいい歌があるということで反論になるのかなぁ

という気もするんですよね。
短歌を解毒するという言い方とか、

何か僕は衝いているような気がしていて。
普通に言うと「風流夢譚」のほうがずっと毒に見えるんだけど、

だけどそうじゃない、
短歌の、ある言語空間のほうが毒なんだという。

これは直観的に当たっているような気がしますね。」
島田 「毒にも薬にもならないと言っているわけ。」
穂村 「それこそが実は毒だということなんだけど、

お茶とかお花とかだったら、先生がいて、
流派があって、段とか級みたいなものに、

師範のお免状があったり、はっきりしていますよね。
でも短歌は微妙に流派があるといえばあるけど、

そこまではっきりあるわけじゃないし、
段や級があるわけじゃないけど、欄によって、

偉い欄や、ちょっと初心者の欄があるみたいな。」
島田 「阿吽の何かね。」
穂村 「その共同体と表現との微妙な関係のすべてが

気持ち悪いと言えば気持ち悪いわけです。
また、これまでは結社と皇室のパラレルな感じとか

相似形として漠然と感じられていたところが、
たとえば永田家は歌の家という形で、

今回はっきり可視化されたところがあって、

金井さんはそこを意識したんだろうと思います。」

 

このほかにも、栗木京子さんの、
「ただ、たとえば岡井隆さんの『わが告白』とか、

それから河野裕子さん、永田和宏さんのエッセイ集が出たときに、

ご本人はそんなつもりはないんだけれども、

出版社側が、夫婦そろって歌会始選者であるとか、

岡井隆さんが御用掛であると広告とか帯に書くじゃないですか。

それがやはり私は問題ではないかと思っていますね。

短歌を知らない一般の人にエッセイ集を読んでもらおうとして

皇室を表に出さざるをえない。そこに金井さんは違和感を憶えたのでしょう。」

というような発言もあるが、
「ご本人はそんなつもりはないんだけれども」って、
ではご本人は、どんなつもりなのか、
どんなつもりもないというのだろうか。
栗木さんもお解りのように、
金井さんでなくても、違和感を感じるのが当たり前なのだ。

風間祥  * 『短歌について』 * 23:50 * comments(0) * trackbacks(0)

2、再び、金井美恵子さんの文章と歌人の反応の不思議さ

論考 たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する  
                           金井美恵子
     『KAWADE 道の手帖』  p76 〜p93  全18ページ。


どう読んでも、金井美恵子さんの文章は、至極尤もな文章で、
この論考のどこが、歌人の誰彼を怒らせているのかわからない。

述べられているのは、まったくその通り、
としか言いようのない事実だけである。
荒唐無稽な想像でも作られた戯画でもない。

本来なら、短歌の世界の内部から出て然るべき批判が、
歌壇外に追放されたくなく、仲間を失いたくない歌人に代わって、
ジャンル外の金井さんによって語られただけであって、
感謝をもって迎えるべき批判だ。

自浄作用が無いことを恥じることはあっても、
怒ったりなど考えることも出来ない。

岡井さんの原発に対する意見や、論旨、
引用されている、日経誌上に発表し、
著書『わが告白』にも書いた認識違いの数々の文章、
告白とは名ばかりの「自慢話」
皇室の威光を中心とし一族郎党相伴って短歌下僕を侍らせる
ピラミッド的ヒエラルキーの肯定。
蔑まれても仕方がないとしか言えない。

同じく、夫妻で歌会始選者を務め、
死に至る経過の一部始終を、紙媒体やTVで近接撮影・放映を
許可した永田一家の在り方。
「現象」と表現した皇后。
国民大衆と皇室と歌人の関係。

歌人が、歌会始選者であり皇室御用掛であり「未来」代表であり
有力で高名な弟子を数多く抱える岡井氏を慮り、
同じく生前歌会始選者を夫妻で務め、
人気結社「塔」の主宰である永田夫妻を慮って、
「未来」や「塔を」敵に回し、歌壇を敵に回す勇気のない歌人たちが
誰も口に出来なかった批判を、
というより、違和にさえ感じなかった感覚麻痺の歌人たちに代わって、
作家であり詩人である金井さんが、発しただけのこと。

当然出されていい疑問、当然問わなければいけない姿勢。
短歌界の中からでも、外からでも、どこからでも。

金井さんは、当たり前のことを言っているだけだ。
それを、短歌に対する蔑視だ嫌悪だと恥ずかしくはないのだろうか。
そんな調子なら、揶揄や嘲笑、蔑視や嫌悪を受けても、
当然の帰結だとも言える。

「揶揄と嘲笑」というが、されるようなことをしているのだ。
短歌界は、自分で自分の姿が見えないようだから、
文学の隣人が鏡を用意してくれただけだと解している。


 

風間祥  * 『短歌について』 * 20:17 * comments(0) * trackbacks(0)

1、大辻隆弘さんの毎日新聞「短歌月評:「短歌否定論」を読んで

 
 
短歌月評:「短歌否定論」=大辻隆弘
毎日新聞 2012年11月19日 東京朝刊
 
作家・詩人の金井美恵子が「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚(むたん)』で短歌を解毒する」(『道の手帖(てちょう)・深沢七郎』)という短歌否定論を発表している。
 
金井はこのなかで、短歌を「大衆に支持される巨大で歴史的な言語空間」として規定し、そこに歌会始を頂点とする天皇制のヒエラルキーを見てとっている。彼女は、岡井隆が皇室に関わり、皇后陛下が河野裕子の歌を愛好されていることをその証拠として挙げる。
 
金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を「和歌」と見なし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない。
 
戦後、短歌は俳句と並び第二芸術論という激しい否定論に曝(さら)された。その背後には、敗戦を機に噴出した日本文化に対するヒステリックな劣等視があった。金井はおそらく、少女期にそのような風潮のなかで短歌と出会ってしまったのだろう。彼女は「<広島がいいね>とトルーマンが言ったので八月六日は原爆記念日」という自作歌を披露してもいるが、このようなものを本当に短歌だと考えているのだとすれば認識が浅すぎる。
 
金井の短歌蔑視の背景には、突き詰めれば、日本語や日本という共同体への深い嫌悪があるのではないか。嫌悪する日本語によって思いを綴(つづ)らざるを得ない、という屈折した自意識は、挿入句の多い難渋な彼女の文章にも滲(にじ)み出ている。が、その鬱憤を短歌に向けられては、たまったものではない。
 
短歌は言語芸術の一ジャンルである。それ以上でも、それ以下でもない。虚心坦懐(きょしんたんかい)でフェアな目が強く希求される。(おおつじ・たかひろ=歌人)
 

 

王国が侮辱され侵害されたといわんばかりの
大辻さんの反応、
驚いた。

 

因みに、金井美恵子さんの文章に関しては、
松村正直さんや、『短歌年鑑』(角川短歌1月号増刊)の中でも、
三枝昴之、川野里子、島田修三さんが、触れている。
 
「短歌に対する執拗なまでの侮蔑と嫌悪感」
(『短歌』9月号「歌壇時評:短歌への嫌悪感」松村正直)とは、
いったいどのようなものなのだろう。
というより、なぜ、そのように、歌人が感じるのか。
非常に興味深い。

「短歌は言語芸術の一ジャンルである。
それ以上でも、それ以下でもない。
虚心坦懐(きょしんたんかい)でフェアな目が強く希求される。」
と、立派なことを書きながら、
「が、その鬱憤を短歌に向けられては、たまったものではない。」
と捉える大辻さんの文も、フェアなものではないと感じる。

何よりも、このような見方は卑怯だということに、
大辻さんは気づいていないのだろうか。
問題はこちら側にあるのではなく、金井さんの資質にあるかのような書き方であって、
短歌自身の問題点には、一切目を向けようとはしていない。

 
「金井の短歌蔑視の背景には、突き詰めれば、
日本語や日本という共同体への深い嫌悪があるのではないか。
嫌悪する日本語によって思いを綴(つづ)らざるを得ない、
という屈折した自意識は、挿入句の多い難渋な彼女の文章
にも滲(にじ)み出ている」

金井さんの「屈折した自意識」が、短歌蔑視の原因だと言いたいのか。
「日本文化に対するヒステリックな劣等視」をする時代に、
「少女期にそのような風潮のなかで短歌と出会ってしまった」ことが、
このような文章を書かせることになった原因だというのか。
全ては、書き手の感性の問題だと。

まるで、日本を批判をしたからと言って、日本が嫌いなら
日本から出て行けという嫌韓・嫌中の人たちと変わらない発想だ。
日本語を独占物のように考えているのだろうか。
いったいなぜ、短歌の在り方を批判したら、
日本を愛していないことになり、日本語を愛していないことになるのだろう。
傲慢な決めつけに過ぎない。



岡井隆氏や河野裕子さん(永田一家)に対する疑問や批判が
禁忌ともなっているかのような短歌界の現状を見る限り、
金井さんの指摘は、別に病的な怨念や
不自然なトラウマによるものとは思えない。

極めてまっとうな批判としか思えない論考について、
あからさまな無視、あるいは全面拒否以外の対応がないとは、
短歌界の閉塞性をそれ自体が裏書きするようだ。

現在の短歌の世界では、岡井隆氏を批判することは、
師事しつながるすべての歌人を敵に回すことに他ならない。

短歌の世界の在り様が、短歌以外の世界から
批判されたからと言って、
短歌への執拗な蔑視だ嫌悪だと言って
全否定するスタンスというのはいったい何だろう。

ただ、心のうたであり、文学であるべき短歌に、
自ら必要以上の綺羅を纏わせようとしたのは誰だ。
いったい誰がそうしたのだ。
誰がことさらに好んで天皇家へ近づき
その権威のもとにかしずくことを選んだのだ。
それでいいのかと問われているのだ。
なぜ誰もみな貝のように口を噤んでいるのかとも。



外からの目線を全て拒否か無視  いつの時代もそのようにして

 

 

風間祥  * 『短歌について』 * 23:31 * - * -
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