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荻原裕幸さんの歌

001:声
それからは声だけがあなたのなかへ入つて春の雪を降らせた
008:鞄
旅をしないときの鞄に絵葉書の折れまがる南島のしづけさ
014:主義
パスタ巻く春の右手の辺りから主義が気化してゐるのが見えた
017:陸 荻原裕幸
あまつぶがにはかに沁みて夏服にひろがつてゐる大陸がある
024:チョコレート分
チョコレートのやうにたやすく八月のあの風景も折れて曲つた
025:泳
別の世界で泳がせてゐた群れるのをとりわけ嫌ふ別のひとりを
032:乾電池
使ひ切つた乾電池にて動きだすふたりの夜のやはらかな羽根
035:禁
禁止したはずだつたのに内側へまぶしき街を拡げてゐたか
041:迷
夏つばめゆんゆん飛んでさしせまる悲しみに迷彩をほどこす
042:官僚
官僚的なひとことのみが残されて夾竹桃の揺れてゐる午後
046:泥
春の泥と書くときだけは美しきものとしてある泥にまみれて
049:ワイン
ワイングラスの水平線にわけられた空の向かうのあなたは笑ふ
063:鬼
鬼としてあなたを追つてゐるうちに戦争が二度起きて終つた
068:四
四枚のキングのなかで髭のないひとりのやうに秋を見てゐる
081:洗濯
洗濯ばさみで冷ややかな晴天に拘束されたシャツを見てゐる



024:チョコレート
>チョコレートのやうにたやすく八月のあの風景も折れて曲つた


日本人なら誰でも忘れられない風景だったのも過去のことになっていこうと
している現在、文学に出来ることは何だろう。
なかんずく短歌に出来ることは。

言葉による表現を不毛とあきらめないことしかない。
あらゆる技法、修辞を用いて衝撃力を持つ表現を獲得し、
深層へと降りてゆく言語の梯子を架けるしかない。

(この歌の場合、二つの時空を結び、そのどちらからの読みも可能にし、
二重の感慨をもたらすような歌い方。)


>063:鬼
鬼としてあなたを追つてゐるうちに戦争が二度起きて終つた

亡くなった塚本邦雄は、まさにそのような作家だった。
荻原裕幸の眼もまた現実の中心にあるものを透視しているように見える。

祥  * 『2005年「題詠マラソン」』 * 19:44 * comments(2) * trackbacks(0)

コメント

寺山が去り、塚本を失った定型短詩の流れに、山崎方代→福島泰樹の別流を除けば、今の穂村弘、加藤治郎、荻原裕幸に期待を寄せています。 私のように不毛な団塊最終世代は去ってしまった春日井建(村木道彦、小池光、伊藤一彦、永田和宏まで含め)らとも違いどこかでふっ切れないストーリーを抱え込んで行き場を失っているようです。 ニューバースと言われる流れは、デジカメのショットに、どこかアナログな処理過程を挟み込みたそうな仕草がみえて、そこが好きです。会話体、柔らかな韻律やそこでの繚乱がどこまで行けるか楽しみです。
 袖ヶ浦ゆうちいでてみれば原発の浜にガメラは卵を産みぬ
Comment by dankai @ 2006/03/11 3:10 PM
>袖ヶ浦ゆうちいでてみれば原発の浜にガメラは卵を産みぬ

時代や社会への問題意識を、物悲しくも棄てられないのが
団塊の世代かもしれませんね。

そこが、抒情に事足りてしまえる少し後の世代とは違うところで、
寧ろ更に後から来る加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘さんたち
に期待をつなぐところかもしれません。

三人が三人とも、当代一流の短歌の書き手で、かつ、
そこが凄いところなのだけれど、鋭く本質に迫る批評
の書き手、評論の担い手なのですから、
それは期待をするなというほうが無理です。

塚本さんのところに荻原裕幸氏が嘗ていて、
岡井隆氏のところに加藤治郎氏がいて、
かつそれぞれ独自の歩みを踏み出している。
穂村弘氏は、短歌というジャンルを越えて活躍している。

それらは、みな、意識するしないに関わらず
師の心を継ぎ、時代の見えない意志を継ぎ、
明日に手渡す作業をしているようにも見えます。

彼らに戦争の核心を衝いた畢生の秀作が成ったのも、
(特に荻原裕幸さんの「▼」、加藤治郎さんの「ゑ」の歌は
表現の無力、不可能性を言われた時代の、戦争詠の双璧で
すね。)
そのような心で生きている必然の結果かもしれないと
思っています。
三人の作家には、いつでもその透明な知の鏡で、
世界を映してほしいと、私も思っています。
Comment by @ 2006/03/11 5:03 PM
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